小川泰堂
小川泰堂
おがわたいどう
(一八一四-七八)
日蓮宗の在家居士。
『高祖遺文録』三〇巻の校訂、刊行と『日蓮大士真実伝』五巻の著述に生涯を捧げた業績は名高い。
文化一一年三月二一日、相模国藤沢に医者の子として生まれた。
幼名泰二郎。
二代孝栄と称した。
泰堂は通称。
幼少の頃より父天祐(初代孝栄)より和漢を習い、いったん江戸に出て薬種商に入店するが、すぐに帰郷。
一三歳から漢詩・和歌を作り、雅楽三管を習い、一六-七歳の時に藤沢の史蹟調査を行って郷土史『我棲里』を書いた。
一八歳にて江戸江湖社の詩画家・大窪天民(詩仏)を訪れ、ここに寄宿して諸学問の研鑽に努め、更には典医・辻元崧菴に入門して本格的な医学修得に励み、解剖学など西洋医学をも摂取した。
天保七年(一八三六)二三歳にて江戸で開業、この年大窪天民の娘百二と結婚した。
この間、書・歌・茶・画道を学び、父天祐や大窪天民との関係で化政期の文化人と親交を深めた。
天保九年三月、二五歳の時、江戸市中の病家を回診した帰途、浅草蔵前の古本屋で日蓮聖人の遺文を読み、初めて日蓮聖人と出会う。
この遺文は『持妙法華問答鈔』であった。
その夜灯下に一読し、翌日には録内・録外の御書全部を借りて日蓮聖人遺文を通読した。
その結果、日蓮聖人の偉大な衆生哀愍の慈悲に感動し、諸宗の及ばない仏法秘妙の極説が示されていることを悟った。
やがて、一心院日治、輪成院日教、妙道院日妙など日蓮宗各師より教えを受け、日蓮聖人の法理を極めようと決意して日蓮宗の信徒になった。
その後、ひたすら遺文を読みふけ、近世初頭以来刊行されてきた版本、写本に誤りの多いことを見出し、同年一〇月二一日に日蓮聖人尊像の前で遺文校訂を発願した。
他方、江戸府内の折伏布教にも取り組み、浄土宗の唯誉が『本朝四箇度宗論記』を再版して日蓮排撃を喧伝したのに対抗し、天保一一年に『典林一斧』を書いて反論。
更に浅草において悪口雑言に屈することなく浄土宗批判の説法を行った。
また、四箇格言を染め抜いた赤旗を押したて、折伏布教を展開していた赤旗深行にも教示を与え、その一味とみなされて幕府に召喚されることもあった。
このため、いったん江戸を離れ、生来の旅行好きもあって西国遊歴に出立し、天保一三年二九歳の時に旅行記『艸枕之記』を書いた。
また弘化元年(一八四四)には、天神真楊流柔術の免許皆伝を受けた。
翌年の八月、父天祐が没し藤沢に帰り、遺文校訂作業へ本格的に取り組み始めた。
遺文校訂事業は、次の段階を経て進められた。
第一期は二五歳より三二歳にいたる時期。
天保九年の発願から遺文の通読、教義の研究、既刊遺文集の考究、遺文集の異本と参考書の収集などに努めた。
弘化二年までの作業。
第二期は、弘化三年から慶応元年(一八六五)の期間、三三歳から五二歳までの二〇年間。
泰堂誕生の年に脱稿した尾張の智英日明編『新撰祖書』の書写本を借り受け、これを底本として校訂を推進し、『高祖遺文録』を完成させた時期である。
嘉永三年(一八五〇)、五七歳にて第一回校訂を完了、引き続き校訂を実施し、完備を期して未稿の整理、補正を繰り返し、慶応元年一〇月三日に完成させた。
この時、「あはれただ仏も照らせ神も見よこの一巻の心づくしを」と、その心境を詠った。
病気と闘いながら、校訂室にした笑宿庵を除くすべての私財を投入。
長男と次男を失うなどの悲運に遭いながら独力でこの事業を成し遂げた。
第三期は、校訂遺文完成の年から明治九年(一八七六)。
五二歳から六三歳にいたる上梓本の校正、刊行の時期である。
『高祖遺文録』三〇巻を編年体により三八七章(収録遺文三八七篇)として二一〇〇紙に集成。
慶応二年に藤懸玄淵、根本明甫(泰堂の教化した商人で資金面の援助者)の手で巻一-六、巻二一-三〇までの一六冊を開版した。
「高祖遺文録三十巻は積年の間訂正校閲して、我が精神既に此書に尽きたり」と語り、校訂済みの残稿一四冊の保管護持を家族に託し、洋文字に訳して海外に広めるよう遺言した。
残稿(巻七-二〇)は、没後の明治一三年に開版された。
この『高祖遺文録』は明治以降に刊行された遺文集の基礎となり、日蓮聖人鑽仰、研究の根本聖典になった。
他方、この間に嘉永六年の高座郡一帯の地震被災者のために診療所を設置し、施薬治療に尽力した。
安政二年(一八五五)の安政大地震に際しても、江戸に被災者治療の診療所をただちに設置し、同じく五ヵ年一期宛の施薬治療に奉仕した。
また文久三年(一八六三)五〇歳の時、『信仏報国論』を書いて、幕末の激動期を王法仏法が共に改革されるべき時節の到来と考え、法華経を護持し国家を守護する自行折伏の修行に取り組むことを高唱した。
他方、慶応三年四月八日に『日蓮大士真実伝』を刊行。
江戸期に出された伝記書を継承しつつ、婦女童幼までも随喜の心を起こす信心増進を目的に、日蓮聖人一代の伝記を著述した。
同書は衆生救護の大導師、日蓮大士一代の足跡と起居動作を明らかにしたもので、文と画の一体さ、語りによる表現を駆使し、奇瑞や夢告、霊験を織り交ぜながら現世利益と救世に励む聖者の風姿を見事に描写している。
また霊跡伝承についても記され、宗門弘通の様子を提示している。
庶民に日蓮聖人の伝記を啓蒙普及した平易な絵詞伝として、その後の日蓮聖人鑽仰や戯曲化の土台となった。
日蓮聖人伝記書のロングセラー、ベストセラーともなっている。
業績としては、他に地方経済の振興に尽力した点があげられる。
明治四年五八歳の時、藤沢市内に循環市場振興の協議会を設置、「元値市議定書」を作成して現金元値市を開催した。
また、時代への開明性と順応性を持ち、福沢諭吉の『西洋事情』を転写する一方、『学問のスゝメ』を批判した。
明治維新期には教導職試補に任命されたが、廃仏毀釈に反対し敬神論批判の建議書を教部省に提出した。
『万国帰一教建策』『王法仏法沿革合一之図』『諸教帰一教建策』などを次々に提言して折伏と報国の活動を展開した。
更に日蓮宗管長新居日薩に『身延山久遠寺災後堂宇興後成策建言』を提出し、宗門護持の重要性を強調した。
なお、文化人としての姿は「名物牌子目録」「採艸帳」など動植物事典ともいうべき記録もあり、五〇以上の著作が現存している。
「いくたびか たちかえりみん みな人の くるしき海に しずむかぎりは」の辞世を残し、明治一一年一二月二五日六五歳にて没した。
《小川雪夫『小川泰堂伝』、石川康明「小川泰堂-日蓮大士像の唱導者」、『日蓮と近代文学者たち』、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、石川教張『文学作品に表われた日蓮聖人』》
(石川教張)