詩
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(近代詩)近代において主として新体詩の形式により日蓮聖人について詠った詩のこと。
山崎紫紅は、新体詩を通じて「巨人日蓮を歌ふ」ことを目的に『日蓮上人』(明治三六年=一九〇三)を書き「日蓮を詠へたる詩か詩が日蓮か」と語っている。
『日蓮上人』は日蓮聖人一代の詩伝というべきもので、「二月の蓮華に生れて 十月の百花に逝きたる 高祖の一生みな詩なり」とうたう「序」や釈迦牟尼世尊の使者として生誕した点を示す「二月蓮華」以下「朝暾題目」「有朋記」「小町折伏・上」「立正安国論・下」「竜口」「大曼陀羅」「本化浄地」「涅槃の巻」と続き、末尾に「冨嶽に対して高祖を懐へる詩」が付されている。
また法華詩篇『大日蓮華』(明治四一年)には「常在」ほか二一篇を収め、このうち「常在」で日蓮聖人が娑婆の教化を終えて本師大聖釈尊へ「降魔の大捷を還告する段」をしるし「汝いまし、日蓮 真の影を早く見たりき 汝上行 真の体を現に見たりと」と賛歌の文字をつらねている。
更に「難風」「烏龍嶼」は伊豆流罪の霊跡を拝した時のものであり、「始めて佐島を望み見て」は佐渡に流された日蓮聖人を想起しつつ「上行生まれし彼島」を遠望した詩が所収されている。
また田中智学が明治三八年三月二一日に書いた「あさひの森」も日蓮聖人について詠んだ代表的な新体詩としてあげられる。
この詩は同年四月『妙宗』誌上に発表されたもので、遊学・帰郷・降魔・得道・転法輪の五巻、二二章からなっている。
即ち叡山、南都への遊学から説きおこし故郷に帰り、ついに清澄山上で開教する日蓮聖人の足跡を讃嘆し詩で綴った半生の伝記の形をとっている。
「闇も裂けよと放ちてし 大光明の昭耀(しようよう)は 天の日輪 地の菩薩 たれか光りのあるじなる」「醒めよ諸人 我はこれ大聖世尊の使なり」。
地涌の菩薩である日蓮聖人の首途をうたい仏使の責務を負って濁世の日本を救い法華経を広めていく姿を描き「霊地清澄の光明を世界にかがやかす詩篇」として注目される作品となっている。
更に宮沢賢治の詩を忘れることはできない。
宮沢賢治は「春と修羅」と名づけた作品で法華経の「春光」に照らされる修羅としての自己を語ったのを始め「野の師父」「土偶坊」「雨ニモマケズ」等の作品によって貧寒とした東北の農村を明るく実り豊かな農村に改革することにより法華経の理想社会を築いていく「地の人」としての不軽菩薩的な生き方を詩に結晶させた。
それは法華経と共に日蓮聖人の大悲心に随順し法華経の題目に帰命した信仰実践の足跡でもあった。
その日蓮聖人に対する帰依渇仰の心は大正末に書かれた『法華堂建立勧進文』にあますところなく表現されている。
これは宮沢賢治による日蓮聖人讃歌といってよく、一生の行実を語りながら「末法救護の大悲心」をあまねく広布した「本化上行大菩薩」の足跡をうたい上げている。
「この時地涌の上首尊 本化上行大菩薩 如来の勅を受けまして 末法救護の大悲心 青蓮華咲く東海の 朝日とともに生まれたもふ 百たび開く大蔵は 久遠に契ふ信の鑰」。
宮沢賢治の抱懐していた日蓮聖人鑽仰の精神を最も体系的に表白した詩として重視すべき作品である。
昭和期では戦前にアンニー・エス・オオモリ作(早水稠雄訳)の『日蓮聖人』が大海原にそびえ立つ日蓮聖人の気高い姿や威厳と慈悲の心をうたった詩が『日蓮主義』(七巻一〇号)に掲載されている。
戦後の代表作には昭和二八年(一九五三)宮城道雄の作曲した交声曲『日蓮』に作詩した佐野前光(一九〇〇-一九八二)の作品があげられる。
胎動・黎明・予言・受難・旋風・自覚・静寂の七節に分け、末法濁世に光明をもたらした日蓮聖人の激しく燃え立ち、あるいは静寂の境地で正法を説き示す姿を深い祈りの一念を通して表現した。
「刀杖瓦石 生命をも めさるはかねて みほとけの みさとしとして 受くところ よろこびなにに たとうべき 先ゆくものの さだめなれ」。
また日蓮聖人第七〇〇忌を迎えるに当り、その記念事業の一つとして制作されたオラトリオ「日蓮」のために作詩した西川満の聖譚詩『日蓮聖人』が昭和五三年(一九七八)四月に真世界社より刊行された。
これは劇的な日蓮聖人の一生を海・花・光・雪・山の五部に分け叙事詩の構成によって活現したもので、法華経の信仰世界と地上の人間および自然のうちに救済を説き法華経の仏土を実現していく聖者の姿をほうふつと湧き立たせている。
「いないな それにまさるつらき別れあり そは一切衆生の主であり師であり親である 日蓮大聖人との別れなり」。
「聖人の霊的世界を示現」しつつ力強さと優しさとを一体として語った抒情にみちた聖譚詩として記念されるべき作品である。
(石川教張)