田中智学
田中智学
たなかちがく
(一八六一-一九三九)
明治、大正、昭和初期にかけて活躍した日蓮宗系の在家仏教運動者。
幼名を巴之助といい、明治三年(一八七〇)七月、一之江妙覚寺二九世智境院日進を師として得度し智学と改名した。
明治四年、日蓮宗の学問道場である下総の飯高檀林に入り、檀林が廃止されるまでの四年間ここで勉学した。
その後、日蓮宗大教院に入ったが入学後一年余で病気のため休学し、脱宗還俗した。
これ以後在家仏教運動を始める。
まず明治一三年横浜で蓮華会を結成し、後に東京に移り、明治一八年立正安国会を設立した。
活動の中心は著述、講演に置かれ、明治三〇年『宗門之維新』『本化摂折論』の草案を著し、同三四年宗門の要人に対してこれを発表した。
続いて明治三六年から三七年にかけて、大阪立正閣で開かれた本化宗学研究大会で『本化妙宗式目』を発表した。
これは山川智応によって筆録整備され『本化妙宗式目講義録』としてまとめられ、改題して『日蓮主義教学大観』と名付けられている。
これにおいて智学の思想は本化妙宗教学として組織大成されている。
更に大正三年(一九一四)国柱会が組織された。
門下には、鷲塚清次郎(智真)、保坂麗山(智宙)、高安太右衛門(智円)、長滝泰昇(智宙)、山川伝之助(智応)らが参会し、高山樗牛、宮沢賢治らの文学者にも思想的影響を与えた。
このような在家仏教運動者は幕末頃からその活動が見られるが、智学の場合は一度得度し、その後還俗して活動したことに特徴が見出せる。
彼は最初檀林に学んだが、檀林の学風はいわゆる天台学中心のものであり、日蓮聖人遺文を中心とするものではなかった。
彼の述懐によれば、日蓮宗の中村、小西、飯高などの檀林は、比叡山や三井の園城寺よりも天台教学の正流を継いだかと思われる程、天台学が盛んであるのに、日蓮聖人遺文の研鑽は風馬牛相関せずといった体で、宗学の組織化がされていない状態であったという。
このような不満、疑問の解決は、日蓮宗大教院入学へと彼を導いた。
明治の日蓮宗は、幕末の宗学者優陀那日輝の門下によって支えられたといっても過言ではない。日輝は檀林の学風を批判し、また僧風の向上を主張した。
その高弟の一人である新居日薩が当時大教院の院長をしており、智学は自己の不満の解消を、そのような主張の日輝門下に求めたのであろう。
しかし日蓮宗の主流となった日輝門下は教学そのものは自由な風潮に満ちていたものの、既成の日輝教学を金科玉条とするところから、その結果として却って自由な学風が没却されていた。
智学は日蓮聖人の教義は終始折伏に一貫しているとの考えを持ち、日輝の摂受的気風を継承する宗門に反発を示し、遂に脱宗還俗して在家活動を展開させる。
彼は摂受、折伏を弘通の手段として分別することを批判し、本化の弘通はそのような分別を超越した折伏でなければならないとした。
そして真理は世俗の事柄を統合することができなければ現実の社会には無用であり、法華経こそがその真理であるとし、このような考えから、人類の思想と目的を法華経によって統一することが折伏の願行であるということを標榜した。
更に仏国土顕現の境界としての日本国を主張し、本化妙宗の国教化、法華経と国体との冥合を力説したが、これは彼を国家主義者と誤解させてしまったうらみがないでもない。
しかしながら、こうした活動には、守成的な既成教団を排し、日蓮聖人の宗教を時代に蘇生することによって新国家の道を歩み始めた日本、あるいは民衆の中に生きた思想としての仏教を萠芽させようとした智学独自の時代観、仏教観が指摘されるであろう。
《田中芳谷『田中智学略伝』、田中香浦『田中智学』、『国史大辞典』九巻「田中智学」の項、『近現代の法華運動と在家教団』『現代世界と日蓮』(春秋社『シリーズ日蓮』四・五)》