国柱会
国柱会
こくちゅうかい
飯高檀林から日蓮宗大教院(院長・新居日薩)に学び、当時の「天台ずり」教学に疑問を抱くようになった田中智学が、還俗ののち『本化妙宗式目講義録』(のち『日蓮主義教学大観』)を発刊後、大正三年(一九一四)一一月、五四歳の時に創設した在家集団。
名称は日蓮聖人の三大誓願の一つ「我れ日本の柱とならむ」に由来したもの。
大正五年一月下旬から『本化聖典大辞林』第一分冊の刊行が始まる。
国柱会の発展と共に田中は大正一一年国柱文芸会、翌一二年立憲養正会などを次々に設立し、活動のワクを拡げた。
田中の日蓮主義は「摂受的に行用する仏教」でなく「折伏的に行用する仏教」であることを主張する。
とくに特徴的なものが「日本国体学」で、その基点に天照大神の「神勅」をおいた。
それが『日本書紀』にある「皇孫、正ヲ養フノ心ヲ弘メ、然ル後、六合ヲ兼ネテ以テ都ヲ開キ、八紘(はつこう)ヲ掩(おう)ヒテ宇(えい)ト為サンコト」という一節の重視となり「八紘一宇」という敗戦前の侵略主義用語の代名詞を新造させもした。
それが「天業たる世界統一を実現すべき実行者は神武天皇であり、指導者は日蓮聖人である」(『師予王国体篇』)となり、王仏冥合論による絶対主義天皇制と日蓮主義との統合理論になる。
そこから国立戒壇的独特な戒壇論も生れた。
その戒壇論が、戦後において創価学会が国会に進出するための理論づけとした「国立戒壇論」の下敷になったことは余り知られていない。
ところで日蓮宗に「立正」の勅額降賜が実現したのは、昭和六年(一九三一)であるが、この奏請文を起草したのは田中智学である。
その後も文筆に講演にと活躍した智学であったが、昭和一四年七九歳で一生を閉じた。
田中智学の純正日蓮主義は、坪内逍遥・高山樗牛・姉崎正治・植中直斎・北原白秋・宮沢賢治・石原莞爾・牧口常三郎・武見太郎らに影響を与えている。
江戸川区一之江に本部をおく国柱会は、戦後の現在も智学の遺志を嗣いで、運動を続けている。昭和五一年版『宗教年鑑』では信者数は二万四二九八人となっている。
《田中智学講述『日蓮主義教学大観』、田中智学『田中智学自伝』、田中香浦『田中智学』、田中芳谷『田中智学先生略伝』、中濃教篤「田中智学」『近代日蓮教団の思想家』、渡辺宝陽「田中智学」『日本近代と日蓮主義』、『国史大辞典』五巻「国柱会」の項、西山茂『近現代の法華運動と在家教団』(春秋社『シリーズ日蓮』四)》