戒壇
戒壇
かいだん
日蓮聖人は本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目をもって「本門の三大事」と称した。
それを承けて一般に日蓮教学においてそれを三大秘法と呼び、日蓮教学における観門の根本に位置づける。
しかしながら「本門の戒壇」についての詳細な叙述は日蓮聖人遺文にさほどなされていない。
しかも『三大秘法稟承事』(別称『三大秘法抄』)を論拠として、日蓮聖人滅後、国立戒壇論が展開され、他方では信行の当処における戒壇の理解が行われた。
更に近年、日蓮正宗・創価学会が国立戒壇設置を標榜したことが大きな問題となり、今日に及んでいる。
ここで注意しなければならないことは、仏教史上、戒壇の概念の展開があるのであり、その意義づけも次第に変化していることである。
そのことを理解した上で、日蓮聖人の戒壇義を理解しなければならない。
〔インド・中国の戒壇〕
一般に戒壇とは、授戒(じゆかい)の儀式を行う場所で、特に壇(だん)を築いて高くしたものを言う。
伝説では釈尊の在世の当時にあったというが、唐の義浄の『大唐西域求法高僧伝』巻上に、インドのナーランダ寺の戒壇について、「根本殿の西畔に戒壇あり、方大尺一丈余なるべし。
即ち平地に於て疂塼墻子を周らし、高二尺許り。
墻内の坐基は高五寸なるべし」と、十尺四方、高さ二尺の土を積んだ上に、坐基のところは高さ五寸というように述べている。
中国においては戒は早く伝えられ、魏の嘉平二年(二五〇)曇柯迦羅が具足戒の羯磨の法を行ったというが、戒壇の建立はそれより約二〇〇年の後である。
『釈氏要覧』によれば、宋の元嘉二年(四二五)求那跋摩(三六七-四三一)が揚都の南林寺前の竹園に壇をつくり、僧尼のために授戒したのが始まりであるという。
また戒壇の起源や名称・形状などについて記述した道宣著『開中創立戒壇図経』によれば、求那跋摩の戒壇建立以前に東晋の竺法護が瓦官寺に、支道林が石城・汾州に、竺道一が洞庭山に、竺道生が呉中虎丘山に、宋の智厳が上定林寺に、慧観が石梁寺に、斉の僧敷が無胡に、梁の法超が南潤に、僧祐が上雲居・栖霞・帰善・受敬の四処に、それぞれ戒壇を建立し、江淮の間に三〇〇余所の戒壇があったことを記しているが、これは事実を述べたものではなく、道宣の感得した天告を記したものとされる。
道宣(五九六-六六七)は律学の振興に努力し、南山律宗の開祖であり、晩年の乾封二年(六六七)に長安の郊外、終南山の浄業寺に戒壇を建立した。
その後、唐の代宗永泰元年(七六五)に大興善寺に方等戒壇が建立され、これが大乗戒壇の始まりである。
のち、唐、宋の間に十ヵ所の戒壇が設けられた。
〔鑑真の授戒と三所の戒壇〕
日本においては、天平勝宝六年(七五四)に中国人僧鑑真が授戒のために来日し、翌七年東大寺大仏殿前に戒壇を建立したのが初めで、次いで天平宝字三年(七六〇)に唐招提寺にも建立された。
のち天平宝字五年に下野(栃木)の薬師寺、筑紫(福岡)の観世音寺にも建立され、これらは東大寺戒壇院と共に「天下の三戒壇」あるいは「本朝の三戒壇」と称された。
以後、国家公認の僧となるためにはこの三寺のいずれかに赴いて『四分律』に基づく小乗戒を受けねばならなかった。
〔伝教大師の大乗戒壇建立〕
日本天台宗の開祖伝教大師最澄(七六七-八二二)は初め東大寺で授戒したが、『梵網経』に基づく大乗菩薩戒の独立を主張し、比叡山上に大乗戒壇の建立を目ざした。
『六条式』、『八条式』、『四条式』(合して『山家学生式』/さんげがくしようしき/という)を順次に著して朝廷に許可を請うた。
しかし当時仏教界を統率していた南都六宗の僧綱の反対にあって同意が得られず、朝廷の許可を得ることができなかった。
最澄は僧綱の反対に反駁し、批判を加えつつ自らの戒律思想を詳述した『顕戒論』を提出したが、結局、最澄存命中には実現しなかった。
しかし弟子光定のはたらきによって、最澄没後七日目、即ち弘仁一三年(八二二)六月に勅許が下り、翌年四月、初代座主義真によって初めて授戒の儀式が行われた。
天長三年(八二六)七月に戒壇建立の宣旨が下り、翌年五月比叡山上に戒壇院が建立された。
その後、長暦二年(一〇三八)に延暦寺と三井の園城寺との間に論争が起り、園城寺の僧徒は叡山戒壇を踏むことを否定して新たに独自の戒壇建立を目ざした。
永保元年(一〇八一)勅許を得て園城寺に戒壇が建立されたが、それは叡山僧徒の来襲によって破却された。
三井は正元二年(一二六〇)再び勅許を得て戒壇を建立せんとしたが、叡山が宣旨撤回の強訴をえたため実現しなかった。
〔日蓮聖人の叡山戒壇に対する評価〕
日蓮聖人は、最澄の叡山戒壇建立について『撰時抄』に「伝教大師は(略)天台大師の円慧円定を撰し給ふのみならず、鑑真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓の大乗別授戒を建立せり。
此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒(けんどく)尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり」(定一〇二六頁)と述べてその偉業を称え、また『曽谷入道殿許御書』には「此之大戒は霊山八年を除いて一閻浮提之内未だ有らざる所の大戒場叡山に建立す」(定九〇五頁)と述べて、法華経の会座である霊山に次ぐ大戒壇であると讃美されている。
しかし、このような叡山戒壇も『下山御消息』に「叡山の円頓戒者又慈覚の謗法に曲られぬ。
彼円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にあらず」(定一三三四頁)と述べて、末法という時代からすれば未だ像法の迹門の戒壇にすぎないとする。
そして、末法においては「本門の戒壇」が中心とされなければならないと述べられている。
〔本門の戒壇〕
日蓮聖人が「本門の戒壇」という語を発表されたのは、佐渡流罪後であり、上行自覚に立たれた後のことである。
今、真蹟の現存する遺文について挙げるならば『法華行者値難事』(文永一一年一月)に、龍樹・天親に対して、一段と法華経を弘通した天台・伝教は「本門の本尊と四菩薩と、戒壇と、南無妙法蓮華経の五字とを之を残したまふ」(定七九八頁)と述べ、『法華取要抄』(文永一一年五月)には「問ふて曰く、如来滅後二千余年に龍樹・天親・天台・伝教の残したまふ所の秘法とは何物ぞや。
答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」定八一五頁)と述べ、『報恩抄』(建治二年七月)には「問て云く、天台・伝教の弘通し給はざる正法ありや。
(略)答へて云く、一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。
(略)二には本門の戒壇。
三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(定一二四八頁)と述べられる。
このように「本門の戒壇」が述べられるのは、上行菩薩等が出現して一天四海に妙法蓮華経を広宣流布するために明らかにされた「本門の三つの法門」、三大秘法が顕わされるなかの一つの法門として語り示されるのみであって、ことさらにその内容については示されていない。
わずかに述べられるのは『三大秘法稟承事』においてのみであるが、同抄には後世の成立かという疑問も呈出されており、また戒壇について必ずしも十分な意義づけが明らかにされているとも言い難い。
そこで後世に展開される戒壇論を離れて、日蓮聖人遺文の展開のなかで、本門戒壇の意義づけを推察すると、次の点が浮かびあがってくる。
第一に前に述べた三大秘法の説述と照応して、伝教大師の円頓戒壇建立の意義が高く評価されていることである。
例えば『観心本尊抄』における「本門教主の寺塔の顕現」に関わる伝教大師の延暦寺建立の評価(定七二〇頁)、同義を述べた『波木井三郎殿御返事』(定七四八頁)、『曽谷入道殿許御書』の一大秘法顕現と円頓戒壇の評価(定九〇〇、九〇二頁)、『報恩抄』の三大秘法顕現と叡山の大乗戒壇の評価(定一二四七、一二四八頁)等がそれである。
それらの遺文で、日蓮聖人が叡山の円頓戒壇を重視するのは、像法の末において法華経弘通の拠点が確立されたということにおいてである。
それは小乗仏教に対する大乗仏教の確立ということであり、日本の三所の戒壇を克服した大乗戒壇が確立さたという点である。
教主釈尊の説かれた諸経典中、随他意の法門でなく、随自意の教たる法華経の法門の確立による仏教の一大開顕が、叡山戒壇によって象徴されたことの評価である。
従って日蓮聖人は戒の内容や授戒の儀相等についてはほとんどふれられていない。
このことから類推されることは、日蓮聖人の本門戒壇は、何らかの意味で末法における本門法華経弘通の象徴ということが重大なテーマとなっていることであろう。
第二に『観心本尊抄』のいわゆる密釈戒壇をめぐっての説述についてである。
同抄「此時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士となりて、一閻浮提第一の本尊、此国に立つべし。
月支・震旦に未だ此の本尊ましまさず。
(略)伝教大師粗(ほぼ)法華経の実義を顕示す。
然りと雖も、時未だ来らざるの故に、東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕さず」(定七二〇頁)と述べられている文脈は、たとえ「本門の戒壇」という語は示されなくとも、内容的に本門の戒壇を密釈されたものと理解されている。
即ち三国に仏教が流伝されたが、本門の本尊は、月支(インド)・震旦(中国)において顕わされることなく、日本に来っても、聖徳太子の四天王寺は阿弥陀仏を本尊とし、聖武天皇は東大寺に華厳経の廬遮那仏をまつり、伝教大師はせっかく法華経の比叡山延暦寺を建立しながら、東方の薬師如来を本尊として、久遠実成の教主釈尊と本化の四菩薩を本尊としなかったのである。
このことを『波木井三郎殿御返事』には、「日本の伝教大師、世に出現して、欽明(天皇)已来二百余年の間、六宗の邪義之を破失す。
其上、天台(大師)の未だ弘めたまはざる円頓戒、之を弘宣したまふ。
所謂、叡山円頓の大戒是也。
但し、仏滅後二千余年、三朝の間、数万の寺々之有り。
然りと雖も、本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したまふ所の妙法蓮華経の五字、未だ之を弘通せず、経文に有って国土には無し。
時機の未だ至らざる故歟」(定七四八頁)と再説されている。
このように日蓮聖人は伝教大師の円頓戒壇建立を称えながら、本門教主釈尊の寺塔の顕現こそが将に今果さなければならない事業であることを示されている。
これが密釈戒壇の内容と考えられる。
三国仏教史上、本門の教主釈尊が本化(ほんげ)の四菩薩を脇士とする本尊は未だ顕わされなかった。
経文に約束された本門教主の寺塔の出現は、時機が来って、今、末法の始に顕現されなければならない。
それによって末法の衆生に対する教主釈尊と法華経の救済の確証をこの娑婆国土に実現されるからである。
〔本門戒壇の解釈〕
前述したように、本門戒壇の儀相等についての説示は日蓮聖人遺文にほとんど見られない。
わずかに『三大秘法抄』の、いわゆる王仏冥合の論述が見られるのである。
そこで後世の「本門戒壇」の解釈を見ると、おおよそ次の三方面から行われていたといえよう。
(1)教団永遠の理想像として語られる解釈。
(2)宗教的防非止悪から懺悔滅罪に進む立場からの考察。
(3)信証という宗教的体験の極地とする解釈、とである。
(1)は主として『三大秘法抄』の「戒壇とは、王法仏法に冥し、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳覚徳比丘のその乃往を未来に移さん時、敕宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者歟。
時を待つべきのみ。
事の戒法と申すは是也」(定一八六四頁)に基づく論説である。
即ち『涅槃経』に示される覚徳比丘と有徳王との理想的な仏教顕彰の先例(『立正安国論』定二二二頁)にならって善比丘とそれを擁護する善き国王・大臣とが一致して文教顕彰のために、法華経説法の会座たる霊山浄土に似た最勝の地に戒壇を建立するという理想の追求である。
日蓮聖人滅後の諫暁運動はこれを目標とし、一天四海皆帰妙法の暁に戒壇を建立する最勝の地として富士、身延等があげられ、いわゆる富士戒壇論・身延戒壇論が展開した。
この主張は明治時代以降、日蓮主義と国体顕彰とを結びつけようとした国立戒壇論として強く主張されたために誤解を招いた点がある。
しかし身延の日蓮聖人が、鎌倉の弟子たちから公場対決の可能性ありとの報告を受けて「日蓮一生の間の祈請並びに所願、忽ちに成就せしむる歟」と直ちに勇躍して立たんの気概をこめて筆をとった『諸人御返事』(弘安元年三月)には「所詮、真言・禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ、是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子・檀那と為らん。
我弟子等の出家は主上・上皇の師と為り、在家は左右の臣下に列らん。
将た又、一閻浮提、皆、此の法門を仰がん」(定一四七九頁)とあり、日蓮聖人が「本門の戒壇」建立を目標としていたと推察することができよう。
(2)は『三大秘法抄』の前引の文「事の戒法と申すは是也」に続いて「三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋(ふみ)給ふべき戒壇也」とあるによるのであって、本門戒とは懺悔滅罪と理解されるのである。
もとより、ここでいう懺悔滅罪とは一般にいわれる懺悔ではなくて、本門法華経に立脚して釈尊の随自意に無知であったり背いたりすることへの懺悔であり、謗法罪の滅罪であることはいうまでもない。
(3)は戒壇が建立されなくとも、本門法華経信受の当処に、信証という宗教体験の極地が現出するのであり、戒壇建立の基幹はこの信証ということにあるというのである。
日蓮聖人滅後に主張された「即是道場の戒壇」というのもこの解釈に連なるものであろう。
〔戒壇論の展開〕
『三大秘法抄』を依拠として、本門戒壇の建立は日蓮聖人門下の共通の悲願として認識せられたと言ってもよいであろう。
しかし、それは一天四海皆帰妙法の暁に、国王によって建立されるべきものとして願望されて来たと言えよう。
従って、それは信仰的実践行動としての諫暁活動と補完的関係にあったと言えるであろう。
しかも戒壇については、重大な事項であるから、軽々しく論じてはならず、また口伝によって真意を知れとされていたもののようで、中山法華経寺三世浄行日祐も「左右無く口外に出さず」(『宗全』第一巻上聖部四〇二頁)と述べている。
日蓮聖人自身にも、そうした点が推察されるのであって、従って戒壇についての論述は系統的にはなされていない。
そこで大きく戒壇論展開の傾向をなぞって行くと次のように言えるであろう。
戒壇建立は悲願とされており、現実にどのように設立されるかの問題はさほど検討されなかった。
しかし教義理解として戒壇論の位置づけはなされなければならない。
その場合、(1)大多数を占める日蓮宗一致派は、悲願としての戒壇建立をテーゼとしながらも、現実の日常信仰のなかに戒壇建立の精神があると考え、信仰の当処の戒壇の実践を重視した。
(2)それに対し、富士の日興門流は富士正嫡論と密接にからめて、富士に戒壇を建立することこそ重要な課題であるとした。
(3)それに対し、(2)とは正反対に、戒壇建立を考えること自体が無意味であるとする主張が顕本法華宗の一部に見られる。
(1)一致派のなかでも、日昭門流に叡山戒壇を踏むや否やの論があったが、これは日蓮教学からすれば論外である(これを評して天台宗過時の戒壇を理壇とし、本門の戒壇を事壇とするという言い方がある)。
おしなべて言えば、一致派は戒壇建立よりも日常に戒壇を見る傾向が強い(この場合、戒壇建立を事、日常の信仰の当処に戒壇を現ずることを理という言い方もあるが、日常に戒壇を現ずることの方が具体的であり、事と言わねばならぬとする考え方もある)。
しかし、この考え方は決して戒壇建立を否定してしまうのではなく、迹門の戒壇(叡山戒壇)に対して本門の戒壇を建立することを悲願とし、ただそれまでの信仰の場において戒壇を修行することを、むしろ重視したと言えるであろう。
江戸後期に日蓮教学の組織大成をはかった一妙日導は『祖書綱要』(『日全』第七巻一三頁)に次のように述べている。
「三秘抄、此には法体を示し、報恩抄、此に形容を示す(略)乃ち三秘抄は延暦寺の迹理の戒壇に対して、将来、王臣帰伏の時、最勝の霊地を得、本門事の戒壇を創築すべきことを示す。
報恩抄は但其名を標して泛爾に之を示し給ふ」。
さらに本門戒壇創築の時期は王臣悉く妙法に帰して一天四海皆帰妙法の暁に、上行菩薩が再誕して王勅によって建立されるとし、建立の地については具体的に述べないが、富士戒壇説に対しては偏見であると批難している(前掲書四七三頁)。
この主張は室町期の円明日澄・本成日実らにも見られるが、日導の後、本妙日臨は事理分満論を述べている。
その主張は理戒壇とは久遠常住の存在であり、大曼荼羅はこれを表現したものとし、更に大曼荼羅安置の寺塔堂宇の道場はすべて戒壇であるが、未だ皆帰妙法でないから分の戒壇であるとし、皆帰妙法の暁には、王仏冥合の勅許による戒壇を建立すべきで、それを満の戒壇というとする。
このように従来の事理二壇説に対して、日臨は事壇・理壇を未来・現在に分けたが、分満論は別として、優陀那日輝も同様の解釈を示している(『三大秘法指要抄』)。
(2)日寛は『文底秘沈抄』の「第二本門戒壇篇」で戒壇を詳説している。
本門流通の当処を本門の戒壇とする理壇説に対して、印度・中国・日本での権門・迹門の戒壇建立の事実を挙げて本門の戒壇は必ず建立すべきであるとする。
更に神力品長行の末文を「若経巻とは即ち是れ本門本尊也。
皆応起塔とは本門の戒壇也」と解釈し、本門本尊所住の本門の戒壇を建つべしとし、これを義の戒壇と名づける。
そして「正しく事の戒壇とは一閻浮提の人の懺悔滅罪之処也。
但然るのみに非ず、梵天帝釈も来下して踏み玉ふべき戒壇也(略)問、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すと為すや。
答、是れ富士山なるべし、故に富士山に之を建立すべき也」(『宗全』第四巻三四頁)と『三大秘法抄』に基づいて戒壇建立を主張し、その地を富士とする。
このような日寛の主張は富士門流では早くから見られ、日興の入滅前後ころから主張されている。
その依拠となったものは『本門宗要抄』『五人所破抄』『富士一跡門徒存知事』等である。
これらの書には本門寺(戒壇)建立、王仏冥合による帝都の富士移転説がみられるが、いずれも日蓮聖人・日興に仮託された偽書であり、『五人所破抄』は日代の著であり、『門徒存知事』はだいたい同時代のものとされている。
日興にはその確実な著述からは戒壇論はみられないが、弟子の日順・日代には富士戒壇建立説が主張されている。
日順の『心底抄』『摧邪立正抄』等によれば、日興の言葉として、迹門戒壇は叡山に建立せられているから本門戒壇の建立は必定であるとし、富士山は閻浮無双の名山であるから、ここに法華本門戒壇を建立すべきである、と述べている。
『表白』には富士山の地は本門寺(戒壇)建立の勝地であるとし、「此地へ帝都を立て」ることを述べている。
この富士最勝地説は富士近辺の在住者にみられるのであって、保田妙本寺日郷・京都の日尊・日辰などの富士を離れた地域の者には戒壇建立の主張はみられても、富士建立説はみられない。
要法寺の寂照日体は、むしろ身延は宗祖九ヵ年在住の聖地として身延正意説を主張している。
また富士門流の主張は二箇相承の成立によって聖人の遺命として主張されるようになるので、富士戒壇論の完成は室町中期ごろと言えよう。
ところで戒壇に安置される本尊について(戒壇本尊論)大曼荼羅・一尊四士・二尊四士などの論がある。
富士門流では大曼荼羅を主張しているが、前期・後期では所論を異にしている。
初期においては事壇建立の暁に造像されるべきで、それまでは大曼荼羅であるとするが、日順はその時「図の如く仏像を造立すべし」と大曼荼羅の図像化を主張し、日尊・日代は略本尊として一尊四士の造像を主張している。
それに対し、妙蓮寺日眼は大曼荼羅を主張して造像を否定している。
また室町期の日要・日我や、のち江戸中期の日寛らは種脱勝劣によって釈迦脱仏としてその造像を否定し、大曼荼羅を本尊とすることを強調している。
特に、堅樹日寛は「就中、弘安二年本門戒壇御本尊は究竟中の究竟、本懐中の本懐也、既に是れ三大秘法の随一也、況や一閻浮提総体の本尊なる故也」(『宗全』第四巻一三七頁)と述べ、弘安二年日蓮聖人より弥四郎国重に授与されたという本尊、いわゆる楠の板本尊をもって特に戒壇本尊と規定している(なお、その楠の板本尊は筆跡等からして、到底、日蓮聖人の直筆を模刻したものとは考えられないことは広く世に知られているところである)。
日興門流は富士戒壇建立によって日蓮聖人門下の正嫡を主張したが、およそ富士という建立の場所のみの主張に留まって、その果すべき機能についての考察はあまり行われていないようである。
ところで富士戒壇説に対して、身延戒壇説もある。
これらの主張は江戸期には幕藩体制によって書物に誌されるのみであった。
ところが近代になって田中智学は盛んに国立戒壇論を主張した。
しかし、それも実現には程遠かった。
それに対して、第二次世界大戦後、日蓮正宗・創価学会は再び国立戒壇建立を主張し、大石寺に国立戒壇を建立すると称して多額の募金を行った。
しかし国立戒壇の主張が政教一致となるのではないかとの疑問が世間に湧き起り、国会での質疑事項となり、遂に創価学会は国立戒壇説を引っ込め、大石寺正本堂は民衆立戒壇に立脚するものだとの答弁をなした。
そのため内部に葛藤を生じ、国立戒壇建立寄付金返還請求の裁判などが行われ、なお今日大きな波紋が生じていることは世によく知られるところである。
これをもって見ても、本門戒壇は、安易に、建築物として捉えられるものであってはならないことが知られるであろう。
(3)このような事壇説に対して理壇説を主張した先師に久遠成日親・慶林日隆・行学日朝・安国日講・承慧日修・長遠日遵・観妙日存・永昌日鑑・桓睿日智らがいる。
その主張するところは、本門の本尊(戒壇本尊)に向って受持法華する所が戒壇であって、処所をきらわず、時節をえらばず、信心唱題の当処に受得するというのである。
なかでも日隆は戒律相・戒体・戒行などについて詳説しているが、法華経を受持することが戒であるからその当処が戒壇であるとする。
日隆は『法華本門弘経抄』の神力品の項で師日存の口伝として「本門の戒壇に付いて通途に戒と云ふ時は、正報を本と為し、壇と云ふ時は依報を本と為す(略)国主信用の時は日本一洲万民を受者として本門の戒壇を建つべきなり。
戒壇の本尊は世流布の本尊の如く、戒壇の方面は地形に従ふべし。
寸尺高下注記すること能わず云云」(『日隆聖人全集』第一一巻一-二頁)と述べている。
この文から推察すると、師日存には戒壇建立の主張があったものと考えられるが、この文以下の日隆の記述は事壇の主張はみられず、即是道場の理壇を主張している。
これは「壇と云ふ時は依報を本と為す」の文によって依報の国土を重視し、本門の戒壇とは「経論釈義御抄等悉く本地久遠の説戒の道場、本時娑婆の寂光土なるべしと見へたり」(前掲書一一頁)と述べ、また『私新抄』には「本門戒壇トハ宝塔品已下ノ虚空会ハ本地久遠の国土妙ヲ顕セリ、是戒壇也」(『宗全』第八巻一二二頁)と述べていることから明らかである。
また桓睿日智や什門の永昌日鑑は『三大秘法抄』を偽書と断定して事壇を否定して理壇を強調する。
桓睿日智は『妙宗綱要』に「立壇とは祖書中に於て独り三大秘法抄言此事に及ぶ。
世皆之を信ず、予は以て偽書とす」(『大崎学報』二号付録五頁)と述べ、更に「所謂壇とは三宝之住する処、行者の所居、壇にあらざるなし」(同三頁)と述べ、また『妙宗綱要』異本には「壇とは何の謂ぞ、其れ処所を顕す也、通じて論ずれば則ち法界常寂光、即ち大曼荼羅に図画する所の本時の娑婆国土、即ち本門の戒壇也、別して論ずれば即ち行者所住の処、若は山谷林谷、若は堂閣殿舎、即ち是れ清浄戒壇也」(『大崎学報』九号七頁)と述べている。
また永昌日鑑は同様に『本迹立正義』に「霊山浄土ニ劣ラヌ勝地ヲ簡テ本門ノ戒壇処ヲ建立スベシト云フ一義アレドモ余ハ是ヲ信ゼス」(『宗全』第六巻三八二頁)と述べて、『三大秘法抄』を疑って事壇を否定し、理壇を主張してその理由を詳説している。
迹門はまだ本国土妙が顕わされておらず、そのために地上に勅許を得て別に戒壇を建立すべきである。
しかし本門においては我常在此娑婆世界と説かれて既に本国土妙が顕われたのであり、十方法界悉く戒壇であるから、別に勝地を簡ぶという理由はないというのである。
そして本門の本尊・行者所住の処が戒壇であって、山谷昿野・寺にても在家にても本門の題目の修行の処が本門の戒壇であるというのである。
更に十方三世仏土浄土・戒壇の立場から「富士山ハ勿論月漢和三国及ヒ南閻浮提尚狭し(略)石徒ガ如キ狭量ノ眼ニハ須弥ト云ヘドモ富士ニハ及フマジト思ハ尤也、吁吁井蛙大海ヲ知ラストハ是也」(『宗全』第六巻三八三-四頁)と、石山の富士最勝説を批難している。
また不受不施派の安国日講は、仏性日奥が強固に主張したのに対して理壇を説いているのは、謗法・戒壇に対する考え方の相違によるものである。
日奥は謗法滅罪に戒壇の意義をみていたが、日講は謗施の不受そのものが戒であるとし、戒壇論の実際的行法として不受不施を主張したものである。
《『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と戒壇」の項、小松邦彰・花野充道『日蓮の思想とその展開』(春秋社『シリーズ日蓮』二)、『遺文辞典』教学篇「戒壇」「三大秘法」の項、『日興門流上代事典』「本門戒壇」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』『国史大辞典』三巻「戒壇」の項》
(渡辺宝陽)