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富士戒壇論

ふじかいだんろん #1817

富士戒壇論

ふじかいだんろん

富士門流の一般の考え方では『三大秘法抄』の「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか」の文により、これに契う最勝の地は自門有縁の地富士山がこの条件にあたるものとしたようである。 ち富士山は日本第一の名山、日本の中心に位置する勝地であるからここに帝都を移し、本門寺を建て本門戒壇をここに建立すべきであるというのである。
この富士戒壇建立説の成立について考えて見るに、まずこれが白蓮阿闍梨日興在世にあったかどうかを調べてみると、日興自身の著作の中にこれについて言及するものはない。 また寂日房日華、蓮蔵房日目等のいわゆる本六人の遺著にも言及したものはない。 しかし日興の晩年その入滅前後のころに至って富士山を中心として本門寺をたて、ここに王城を移し、本門戒壇建立の地とすべきであるとする考え方が表面に出るようになった。 これを最も早く主張したのは三位房日順である。
日順は永仁二年(一二九四)の生れ、幼少にして寂仙房日澄にしたがい、その寂後日興に直参して学行に功を入れ器許せられた。 日順は早くより頭角を現し、二五歳の文保二年(一三一八)一一月、天台大師講にあたり重須談所の講師にえらばれ一座の論談を行ったことがあるが、その時の『表白』文に我朝は本仏の住所なる故に「本朝」といい、月氏、震丹に勝る故に「日本」と名づける、富士山を「或は大日山とも号し、又蓮華山とも呼ぶ、これ偏えに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人、大本門寺建立すべき故に先き立って大日山と号するか、将又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布すべき故に蓮華山を名づくるか」とこの富士山の地は大本門寺を建立すべき深縁の勝地であることを嘆じ、この富士山の「麓は崇山四周もって外廊となる。天竺の王舎城にも超え、漢土の長安城にも過ぎたり、此処へ帝都を立て一切衆生仏法を崇め奉らば、現世安穏・後生処ならんこと何の疑かあらん」と富士山麓に都を遷すことをのべている。
ところで日順の晩年五六歳、貞和五年(一三四九)ごろの『心底抄』『摧邪立正抄』等によれば、わが国にあっては迹門戒壇は延暦寺に建立されているから本門戒壇が建立せられることは必定である、「戒壇それ豈立たざらんや、仏像を安置する事は本尊図の如し、戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議をなすべし、寸尺の高下は注記する能はず」(『心底抄』)といい、また『摧邪立正抄』には富士山は閻浮無双の名山である、故に「日興上人独り彼人を卜して居り、爾前迹門の謗法を対治して法華本門戒壇を建てんと欲し、本門の大曼荼羅を安置し当に南無妙法蓮華経と唱ふべしと公に奏聞を捧げ」たという。 日順は日興直弟のうち新六に比肩する人で、日向(宮崎県)日知屋定寺開山日叡、京都上行院開山日尊、佐渡阿仏房妙宣寺日満共に名声を馳せた人物である。
さて新六の一人、西山本門寺蔵人阿闍梨日代等とは大宝阿闍梨日善・大進阿闍梨日助と共に暦応三年(一三四〇)八月、申状を製作しているが、これには富士山は閻浮無双の名山、日域第一の神峯であるから「早く法華本門之極説を以て吾第一の霊峯に弘め」られんことをのべている。 ここには戒壇建立の語は見えぬが「法華本門の極説」を「吾国第一の霊峯」に弘めると願っている所、戒壇建立の願望をのべていること明らかである。
更に聖人滅後四、五〇年、日興晩年のころ成立と考えられている『本門宗要抄』は聖人の名に仮託した富士門流讃美の書であるが、本書には「日本無双の名山富士山に隠籠せんと欲すと雖も檀那の請によって今此山に籠居す、我が弟子の中に若し本門寺の戒壇の勅を申請けて戒壇を建てんと欲せば須らく富士山に築くべし」(定二一六四頁)としるしている。 聖人はもともと富士山に隠棲しようと思ったが檀那の請によって身延山に入った。 しかしもし本門戒壇建立の勅許を蒙ったならば富士山に築壇せよと遺命したものである。
然るに大石寺の後董と、東御堂地の相続について同寺四世日道と争った房州保田妙本寺日郷は共に日興の高弟、新六に数えられている人物であるが、日郷は富士戒壇について何等言及していない。 しかもその嗣日伝は『大綱深秘抄』に「本門戒壇院は如何様に建立すべきや、堂か、塔か。答云く七宝荘厳の多宝仏塔なるべし」と定め「戒壇院の儀式は今経の説相にまかせ」その「荘厳安置の経巻は如来金言に任せて推求、推に及ぶべからず」等と問答決答して富士山の地を全く無視している。 これで見ると日興直門の諸師にして富士近辺に住するものは富士山中心を主張し、これを離れた諸師は富士を無視したようである。 しかし一般的には富士中心説を唱える諸師の方が圧倒的に多数をしめているからこれが富士門流の一般的主流となったのであろう。 なお大夫阿闍梨日尊は北は奥州、西は安芸、石見に至るに往返遊行し京都に上行院を建て特に出雲、石見地方に線を広げ、京都を中心に日尊門流を形成、富士門流のうち最も大をなした門家であるが、南北朝末、室町時代初期、この門流において「両巻血脈」といわれる『法華本門宗血脈相承事』(一般に『本因妙抄』という)と『具騰本種正法実義本迹勝劣正伝』(一般に『百六箇相承』という)の二本が宗祖に仮託して作られたが、その一つの『百六箇相承』に「三箇秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂也、上行院は祖師堂云々、弘通所は惣じて院号なるべし」と示し「玉野大夫(日尊)は王城の開山、日目は弘通の尊高なり、華洛並びに所所に上行院建立あり」といっている。 ここには日尊が王城の開山なることを強調し、富士に三大秘法・戒壇を建立する一義をのべつつ、一閻浮提のうちに「六万坊を建立せしめよ、何れの在処たりとも多宝富士山本門寺上行院と号すべし」弘通所六万坊建立を目標としているが、この弘通所はすべて「多宝富士山本門寺」と号するのであるから、この坊はまた戒壇建立の勝地でもある、随って日尊門家では戒壇建立の勝地は別しては富士山、総じていえば弘通所すべての坊が戒壇の所在となるわけである。
次に『五人所破抄』『富士一跡門徒存知事』は古くから、日興の著作であるといわれ重要視されていたものであるが、実は日興仮の書である。 近来富士門流では日順の著であるとするが、最近の研究によれば『五人所破抄』は日代の著であり、『門徒存知』の作者は不明であるが概ね同代の成立と考えられている。 なお、この書の成立年について、川﨑弘志氏による研究によると、「正安二(一三一三)年以降元亨三(一三二三)年以前成立」という説もある。
さて『五人所破抄』によれば富士山は大日蓮華山と号し「日天の能住、聖人この高峯を撰で本門を弘めんと欲す」と富士に本門寺建立の義を認めながら、また戒壇建立の義まで言及していないが『門徒存知事』には「本門寺を建つべき在所の事」の条に「而るに此本門寺においては、先師何国、何れの所とも之を定めおかれず、爰に日興云く、凡そ勝地を撰みて伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば富士山はこれ日本第一の名山なり、最もこの砌りにおいて本門寺を建立すべき由、奏聞し畢ぬ。仍て広宣流布の時至り、国王此法門を用ひらるるのは必ず富士山に立てられるべき也」と。 これによれば先師日蓮は本門寺をもってどこの国のどの場所に立てよとは定められなかったが、勝地に伽藍を建てるのは仏法の通例であるから日興は勝地たる富士山の地に建立すべきであると定めたと、富士に本門寺を建立するのは日興の撰定にかかることをのべ、また「王城においては殊に勝地を撰ぶべきなり、中んづく仏法と王法と本源一体なり、居処随って相離るべからず、仍て南都の七大寺、北京の比叡山先蹤これ同じ、後代改めず、然れば駿河国の富士山は広博の地也、一には扶桑国也、二には四神相応の勝地也、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且は往古の佳例也、且は日蓮大聖の本願を祈る所也」と、即ち王城は仏法と王法と一体のものであるから勝地たる本門寺の在所と同じく富士に移すべきであるとし、かつて日順が若年の時にしるした『表白』の本門寺、帝都建立移転説を明確にしている。
ここに注意すべきは、本門寺建立は同時に戒壇建立をも意味するのであるが、この事は聖人の定められたことでなく日興の言葉であるということである。 このことばによって『門徒存知事』が作られたころはまだ「国主此法を立てられば、富士山本門戒壇を建立せらるべき也」という二箇相承のいわゆる『身延相承』が作製されていなかったということが知られる。 もし富士山に本門寺並びに戒壇を建立するという相承が知られておれば「先師何れの、何れの所とも定めおかれ」なかったということを記すはずはない。 富士に本門戒壇を建立するということは先師相伝金言として特筆されるべきものであるからである。 もっとも二箇相承は長享・延徳(一四八八-八九)のころ、日興滅後一五〇年代においても完全に成文されていなかったぐらいで、本相承最古の写本は長享二年(一四八八)六月、左京阿闍梨日の著『類聚翰私集』に初めてその形を見ることができる。 これによれば「釈尊五十余年之説教」の条は「弘安五年九月十三日」付けで『身延相承』、「日蓮一期弘法」は「弘安五年十月十三日」付で『池上相承』となり、現在日蓮正宗で用いている相承と反対になっており、内容、日付にも相違がある。 日の他の著述にはまた現行の相承と同じ標目のものもあってこれまた本文に具略を存するのであるが、これらから考えるに日のころには二箇相承に定形がなかったといえよう。 なお妙蓮寺日眼の作と伝えられる『五人所破抄見聞』という書があって、本書は康暦二年(一三八〇)六月、即ち聖人滅後九九年、日興滅後四八年の年に著されているが、これに二箇相承がのせられているから本相承はそれ以前の成立であると主張するものもあるが、『五人所破抄見聞』は日眼の著述でなく、「康暦二庚申年六月四日」という識語は後人の加筆であり、文中また妙蓮寺日眼の著述とする文証はなく、しかのみならず康暦二年より九〇年も後、文明二年(一四七〇)の歴史実がのせられているのである。 従って二箇相承の最古の写本は日の長享二年『類聚翰私集』以外にはないとせねばならぬ。
さて『門徒存知事』は応永二九年(一四二二)極月、日算によって書写されているから大体、南北朝末、室町初期(一三九〇頃)には成立していたとしても、そのころでさえも富士山本門寺、戒壇建立の考えは聖人より相伝のものでなく日興の発想であると考えられていたことが知られる。 南北朝の末には京都における法華宗は各門流、分派の分立、一致勝劣の抗争でそれぞれに嫡庶、傍正、清濁を論じ、各々が嫡流、正系、清法を相承し、直授していることを主張し、それ故に目ざましい活躍と発展を遂げたが、富士門流の諸山は駿河の僻地に逼塞し、京都の日尊門流の繁栄の影にかくれていたのである。 日昭門浜門流では日昭の「聖人御弟子之れ多しと雖も日昭嫡弟たる間付与を蒙る」という譲状(正本池上本門寺蔵)の主張によりこの当時の嫡弟意識に大きな影響を及ぼしたと思われるが、これは特に日朗・日興門を刺激した。 かくて京都本寺の六条門流では四条門流妙本寺(旧妙顕寺)と、越後本成寺の日陣門流に対抗して『日朗譲状』を作って本国寺正嫡を主張し、富士門流では「本尊七箇の口伝、教化弘経の七箇の伝、本尊の大事」いわゆる『産湯相承』『教化弘経七箇口決大事』『御本尊七箇之大事』を集め「この血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承之ホンジョウ唯授一人の血脈也、相構へ相構へ秘すべし、秘すべし」(『本因妙抄』)と直授相承を誇示し「両巻血脈」を作りあげたが、更に日興の『本門寺棟礼』に「国主此法を建てらるるの時、三堂一時に造営すべき也」とある「国主此法を建てらるるの時」の文と、『三大秘法抄』の王法仏法冥合の時「勅宣竝びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべき耳、事の戒法と申すは是也」(定一八六四頁)の文と関係づけ、あたかもこのころ富士地方における富士最勝、本門寺中心、富士王城説が醸成されている中で「国主此法を立てらるれば富士山本門寺戒壇を建立せらるべき也、事の戒法と謂は是也」といういわゆる『身延相承』(但し日教の池上相承)が作られ、更に身延山久遠寺の正嫡は日興であることを裏付けんとして「白蓮阿闍梨日興、身延山久遠寺の別当たるべき也」といういわゆる『池上相承』(日教の身延相承)の二譲状が偽作されたのである。 従って二箇相承は『本因妙抄』『百六箇相承』『五人所破抄』『門徒存知事』が漸次成立したと推測される南北朝末、室町初期、祖滅一〇〇年乃至二、三〇年ごろ富士地方の同門徒の手によって作製されたものと見られる。 この二箇相承の成立によって富士本門寺中心、富士王城説、富士戒壇論が富士門徒に定着したものと見てよい。
《『宗全』一巻「上聖部」・二巻「興尊集」、日蓮宗宗務院「歴史より見た日蓮正宗」『創価学会批判』、宮崎英修「五人所破抄見聞の価値」『棲神』四一号、同「興門初期の分裂と方便品読不読論」『大崎学報』一二二号》
(宮崎英修)

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