三位房
三位房
さんみぼう
三位公、三位殿、三位阿闇梨、三位などと記されている。
これら三位房が同一人物と考える場合、日蓮聖人は数通の御書を送っているが、桑ケ谷問答で知られる三位房に送ったものとして、はっきりしている最初のものは『御輿振御書』(定四三七頁)や『法門可被申様之事』(定四四三頁)で、いずれも文永六年(一二六九)である。
そこでこれらの御書などより三位房の事跡をみると、三位房は叡山に遊学し天台を始め諸学の勉強に励んでいた。
この間に公家らより厚遇を受けて喜んだり、京都貴族の風に染まり、言葉まで京なまりになったので、その気持の弱いことを日蓮聖人は注意している。
三位房は生来頭脳明晰で理解力に優れていたので、それが桑ケ谷問答で発揮された。
桑ケ谷問答とは、建治三年(一二七七)の春に叡山から竜象房という天台僧が鎌倉に下って来て、良観の庇護を得て桑ケ谷の坊に座を張って説法をしていた。
内容は念仏、真言、禅宗が勝れていることと、日蓮聖人への攻撃であった。
この様子を知った三位房は、四条金吾を伴って法席に入り、仏法の上において不審あらば尋ねよとの竜象房のことばに応じて質問した。
数回の問答のうちに竜象房は完全に答えることが出来なくなり敗退した。
しかし、これは同席した四条金吾を苦しめる結果となる。
四条金吾の主君が良観に帰依していた江馬光時であり、竜象房も良観の請に応じ動いていたため、光時は四条金吾に対して今後日蓮聖人への帰依をやめるように起請文の提出を命じた(『頼基陳状』定一三四六頁)。
ところで、三位房の行為は信仰心より発露したものでなく、才能と高慢とによっていたため、強い力の前に弱い面があった。
強権の弾圧の前にも動揺しないようにと、『佐渡御書』(定六一〇頁)などで門下一同に申渡していたが、三位房はそれに耐えることが出来ず退転者の一人となった。
このことを弘安二年一〇月の『聖人御難事』に「なごへの尼・せう(少輔)房・のと房・三位房などのやうに候をくびやう(臆病)」(定一六七五頁)と書かれていて、門下脱落の一理由として「臆病」と指摘されている。
事に当たって気おくれし、その果てに不幸にも異常な死に遭遇してしまったと知れる。
それより五ヵ月前に富木氏に宛たとする『四菩薩造立鈔』の中では「日行房死去の事、不便に候(略)願くは日行を釈迦、多宝、十方の諸仏霊山へ迎え取らせ給へ」(定一六五〇頁)と書かれていて、記述された日行を三位房と同人とする見方があるが同書は真蹟不存であり内容は明白に偽撰書の断定が許されるものである(三位房を日行と称するのは、この書だけであり、かつ日号に房を付す呼称は他になく、おそらく偽撰作者の勇み足であろう。
つまり日行房=三位房説は認めがたい)。
従って信を置き難いのであるが、ただ死去記述は他書によって証認できるから依用できよう。
前出『聖人御難事』に「三位房が事は大不思議の事ども候しかども」と言ってその死の変態的異常さをいぶかしむが、しかしそれは三位房が「はらぐろ(侫心)となりて大つち(槌)をあたりて候ぞ」と受罰の死であったことを門弟に伝えている。
三位房が門下の誰れもが嘱望する人材であったからか不遇な死を招いた弟子を悼みもし、かつは「日蓮をいやしみて故三位房がやうに無間地獄に堕事なかれ」(新出真蹟断簡)と門下に教諭もしたのであった。
歿年月日は不明だが、関連遺文を検すれば弘安元年夏の頃と考えられてよいとおもわれる。
三位房について古来よりやや混同して考えられたことのある人に身延山三世日進が挙げられる。
日進は文永八年(一二七一)の生れで、初め日心と号し、のち日真、更に日進に改めた。
正式には三位公大進阿闍利日進という。
安部氏の出といわれ甲州の産である。
父は久本房日元といい身延沢竹之房を創始して日朗に師事した。
日進は日元の子で、三人兄弟(『本化別頭仏祖統紀』に「師は俗たりし時三男児あり、長子は身延第三の主進上、次は身延第四の主善上、次は日上なり」、また『日蓮教団全史』に「日進の出自には安培、高橋、曾谷氏の裔とする三説あり」とする。
)の長子であり、次男の日善は身延四世、三男の日上は父の創始した竹之房に四世として住した。
日進は富士柚野村に竹養山正法寺を創始し、日向に師事した。
のち日向の後を受けて身延山三世となり、久遠寺の諸堂を整備したようである。
建武元年(一三三四)に身延を弟の日善に付して、同年一二月八日七六歳で遷化する。
ところで『本化別頭仏祖統紀』の「日進上人伝」の中に「初め鎌倉桑か谷に龍象房なるもの有り、法を説いて哺啜す、怪を修め幻を講じて衆人を欺誑す(略)師往てこれを詰めれば(略)龍象房辟易して逃走す、師時に十九才」の文が末尾にあるため前述の日行と同一に考えられたのであるが、現在この内容は日進のものでないとされている。
しかし竜象房の件を日進とするものに、『元祖蓮公薩埵略伝』に「六月九日三位公日真は龍象房と問答」、また『日蓮聖人註画讃』に「六月九日聖人の御弟子三位公日真は問答のためにかしこに至り先づ重々の難勢を挙けたもうといえども龍象悉く閉口す」とあり、日進と竜象房との関係を説明している。
《田村芳朗『日蓮』、宮崎英修『日蓮とその弟子』、姉崎正治『法華経の行者日蓮』、立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』、『遺文辞典』歴史篇「三位房」の項、『日蓮辞典』「三位房」の項、『昭和新修』別巻「大進阿闍梨」「三位房日行」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と退転者」の項》