龍象房
龍象房
りゅうぞうぼう
(-一二七五-) 鎌倉時代の人。
『天台座主記』澄覚法親王(八七世)の建治元年(一二七五)の条に「四月二七日、山門の衆徒東光寺に集会し、公友井に犬神人を龍象上人の住房に差し遣わし、之を焼き払う。中山の住房においては犬神人之を破却す」と見える。
この人は建治三年には鎌倉に下り、極楽寺良観らに親眤して庇護をうけ、五-六月のころより鎌倉桑ケ谷に草庵をかまえて説法するようになったという。
『頼基陳状』によれば、龍象房はさきに洛中において人肉を嗜癖食啖する悪行が露見して住房を焼失破却され、鎌倉に下ったが、落ちつくとまた食肉の悪癖がでてこれが発覚したといい(定一三五五頁)、富木常忍の『言上』によれば、鎌倉小袋坂の墓地をあばいて死人の肉を切取っている下僧を捕え、由井浜の政所で取り調べたところ、龍象房の頼みによるものであることが判明した。
よって常忍はこのことを身延の聖人に報じている。
龍象房が叡山を放逐されたのはこの人肉嗜好の悪行露見のゆえであろう。
山を追われ、しばらく所々に身をかくしていた龍象房は建治二-三年(一二七六-七七)の交わりのころか、鎌倉に下り良観の援助を得て大仏の門の西、桑ケ谷の堂に止住して日夜に説法したが、弁才にたけていたから聴聞の人々を魅了し鎌倉中の上下の諸人に生き仏のように貴ばれるに至った。
恐らく龍象房は説法中、良観や隆弁等を讃嘆して聖人を難じ、諸宗をあげて法華宗を貶斥する言動に及んだものと思われる。
かくして建治三年六月の初め、当時三位房は鎌倉に在住していたが龍象房の評判をきき、このころすでに龍象の叡山での行為、鎌倉での所行も明らかになっていたからこれを破折せんとし四条金吾をいざなって桑ケ谷に赴むき龍象房の法談がおわってのちこれに質問して絶口せしめた。
龍象房はいたたまれずして鎌倉を逐電してしまったが、この件によって良観も面目を失うに至った。
憤激した良観はその報復を企て三位房と一緒にいた四条金吾が、その主君である江馬光時・親時父子共々に自分の帰依者であるところから、金吾が徒党を率い刀杖をもって説法の座に乱入し、狼籍に及んだと讒言し、また金吾に対する光時の信頼を嫉視していた同僚たちもよき機会の到来と、共々に讒誣(ざんぶ)し君臣の間を離反せしめようと謀った。
金吾はしばらく苦境に立ったが、間もなく事の真相が判明して誣告の疑いも晴れ、主君の覚えも倍旧し、所領を加増されるに至った。
龍象房の末は未詳。
《『遺文辞典』歴史篇「龍象房」の項、『昭和新修』別巻「龍象房」の項》