良観
良観
りょうかん
(一二一七-一三〇三) 諱は忍性、真言律宗の僧。
大和(奈良県)の生まれ、十一歳で信貴山に投じ、仁治元年(一二四〇)叡尊につき出家受戒す。
建長四年(一二五二)関東に戒律を振興するために下向、常陸(茨城県)清涼院ついで三村寺に住す。
弘長元年(一二六一)鎌倉の釈迦堂に移住、北条時頼は忍性を開山に招き光泉寺を建立、また北条業時の創建した多宝寺に住し、鎌倉の布教に当った。
文永四年(一二六七)北条長時と弟業時は父重時の菩提所極楽寺を修理、この寺に招き、以後三七年ここに住した。
この間、建治元年(一二七五)摂津多田院別当、永仁元年(一二九三)東大寺大勧進職、次いで天王寺別当に補せられた。
その宗教活動の特色は、戒と祈祷にあり、聖人と祈雨を争い、これに破れたことは有名であるが、ことに西の叡尊と並び、関東における異国退散の祈祷を修したように、祈祷を通じ幕府要路者と深いつながりを有していた。
また社会事業においても著名で、多田院再興に際し、その地の殺生禁断を命じ、天王寺に悲田・敬田両院を再興、あるいは極楽寺に療病・施薬・悲田・福田の各院、癩宿また馬病舎を設ける等、救癩を始め貧民救済、道路橋梁の構築を行い、聖人も『頼基陳状』『下山御消息』『聖愚問答鈔』等に、その事実を一応認めている。
聖人の律宗批判は、具体的には忍性の行業に対してなされたもので、末法における持戒は専持法華にあるとする聖人の立場からは、忍性の戒は当然否定され、またその社会事業についても『聖愚問答鈔』で、事業の資金として関米、関銭等を徴集したことを「諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらい只此事に在り眼前の事なり」(定三五四頁)と非難しているが、忍性の社会事業を考える際、注意すべきことである。
特に日蓮聖人に対して、然阿良忠、新善光寺道阿道教と共に浄光明寺行敏をして聖人を幕府に訴えさせ、あるいは幕府要路者、それに連なる女性に働きかけ、聖人の弾圧を謀った。
禅・律等を批判したことは、それらに深く帰依していた北条得宗一門ひいては幕府政治を批判することであり、遂に聖人は捕らえられ、龍口法難がこれによって生じた。
《『遺文辞典』歴史篇「忍性(にんしょう)」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と良観房忍性」の項、『昭和新修』別巻「極楽寺良観」の項、『日本仏教人名辞典』『岩波仏教辞典』『国史大辞典』十一巻「忍性」の項》