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龍口法難

りゅうこうほうなん #5337

龍口法難

りゅうこうほうなん

文永八年(一二七一)九月一二日、侍所所司平頼綱の指揮のもとに、草庵で逮捕された日蓮聖人が同深夜竜口で斬首されようとした件。
四大法難の一つ。
この法難は、聖人のみならず、弟子・檀越にも徹底的な弾圧が加えられ、形成された団は潰滅的な打撃をうけた。
文永五年正月、日本の服属を求め、応じなければ武力を用いてもその服属を強いる蒙古国書の到来は、『立正安国論』で警告した他国侵逼難の予言の的中を示し、これを契機として、聖人は幕府の反省を促し、諸宗を批難する言動も激化した。
その諸宗批判は、聖人のみならず、蒙古襲来の不安と共に増大し形成されていく門弟によっても行動化された。
文永八年六月、聖人との祈雨の成・不成によって仏法の正邪を決する争いに敗退した律僧忍性は、文永八年六月、聖人との祈雨の成・不成によって仏法の正邪を決する争いに敗退した。同年七月浄土宗僧良忠らと共に、聖人の法華経のみを是とし余経を一切否定する是一非諸の専修的・排他的な主張や、聖人の門弟による本尊である弥陀・観音などの焼き捨て、更に聖人の法華経守護と称し凶徒を室中に集め兵杖を畜えている行動を、思想的にも行動的にも危険な存在であるとして、聖人とその門弟を幕府に訴えた。
聖人は門弟の本尊を破棄する等の行為は否定したが、兵杖に関しては「法華経守護の為の弓箭兵杖は仏法の定むる法也」(定五〇〇頁)と答え、正法護持のための武器を肯定した。
更に忍性らは「或は奉行につき、或はきり人(権家)につき、或はきり女房(権閨)につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事日本国を失はんと咒そ(咀)する法師なり。
故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり」(定一二三八頁)と種々の讒言を繰返した。
同年八月、蒙古からの三度目の使者が大宰府に着き、蒙古襲来の緊迫した情勢はいっそう深まった。
幕府は九月一三日、異の防御と領内の悪党を鎮めるために、九州に所領をもち、関東の所領に在住している御人に、九州下向を命じて防衛対策を推進した。
律憎忍性らの讒言と、こうした蒙古襲来の危機感も加わって、先の御教書が発令される前日の九月一二日、遂に幕府は聖人とその門弟の言動に対して徹底的な弾圧を加えた。
午後四頃、聖人は侍所所司平頼綱の指揮のもとに草庵で逮捕されたが、この時、聖人は頼綱に、いわゆる三度の諌暁のうち『立正安国論』上申に次ぐ第二の諌暁を行っている。
しかし聖人は懐中の法華経を取出され、「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うる者あらんも、我等は皆まさに忍ぶべし」という「勧持品」の経文を含む第五の巻をもって、さんざんに打たれ、「ただ法華経を弘通する計りの大科なり」(定八九二頁)とその喜びを語っている。
「千が九百九十九人は堕ちて候」(定八六九頁)というほど、この弾圧は大規模かつ徹底的なものであった。
文永初期以来、聖人の築き上げてきた団は、潰滅寸前の危に追いこまれた。
しかし聖人はこの弾圧を覚悟のこととして受けとめ、罪科に処せられてこそ過去の謗法の罪をも消すことができ、この謗法の重業を消すことに比べれば、この世の迫害・弾圧は極めて軽いものであるとし、弾圧を受けた宗教的意味を自らも考え、門弟にもえていった。
それにしても、この弾圧は、門弟の大部分を転向させてしまうほど徹底的になされた。
そうしたなかで、信仰を貫き通し罪科に処せられた牢中の門弟の身を案じつつ、聖人は一〇月一〇日、配流地佐渡へ向けて依智を出発した。
《高木豊『日蓮とその門弟』、川添昭二『日蓮―その思想・行動と蒙古襲来―』、『日蓮辞典』「竜口法難」の項、『日蓮聖人大事典』(国書刊行会)「日蓮聖人の生涯」「日蓮聖人と法難」の項、『日蓮聖人事蹟事典』「神奈川」「新潟」「佐渡」の項、岡元錬城『日蓮聖人―久遠の唱導師』》

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