平頼綱
平頼綱
へいのよりつな
(-一二九四)
鎌倉時代の武将で、北条氏の有力被官の一人。
左衛門尉と称す。
文永八年(一二七一)、日蓮聖人の佐渡流罪を招いた竜口法難では、鎌倉幕府侍所の所司として、日蓮聖人逮捕の指揮に中心的役割を果した。
このとき聖人は、頼綱に「予は日本国の棟梁なり。
我を失ふは国を失ふなるべし」(法蓮鈔)、「予を失(うしなう)は日本国の柱橦(はしら)を倒(たおす)なり。
只今に自界叛逆難(ほんぎやくなん)きてどしうち(同士討)して、他国侵逼(しんぴつ)とて此の国の人々他国に打殺(うちころさの)るのみならず、多くいけどりにせらるべし。
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等一切の念仏・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひ(由比)のはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべし」(撰時抄)と諌めた。
これをいわゆる三度の諌暁のうち『立正安国論』の上呈につぐ第二の諌暁という。
その後、聖人が赦免されると、文永一一年(一二七四)高まる蒙古襲来の気配の中で、かつてその襲来を予言したという聖人を召喚し、蒙古問題について面談している。
聖人は、ここで宗教的立場からその対策についての進言を行ったが、頼綱はそれを採用するに至らなかった。
即ち聖人は正法が衰退し、邪法が蔓延する日本の内なる問題として捉え、宗教的な解決を第一義としていたのに対し、頼綱は防衛体制の中心にあった侍所所司として、これを襲来の防衛という軍事的・政治的な問題として捉えていたことによる。
この進言を日蓮聖人の三度目の諌暁という。
頼綱はそののち、弘安七年(一二八四)北条執権の内管領となり、翌八年一一月には北条時宗の舅として政権を握っていた安達泰盛を讒言し、その名目をもって一族を滅ぼした(霜月騒動)。
泰盛を退けた頼綱は執権を凌ぐほどの勢いを持つに至り、専制支配を行うようになっていった。
しかし永仁二年(一二九四)四月、頼綱の専横と恐怖政治に不安を抱いた主君貞時は、鎌倉大地震の混乱に乗じて頼綱一族を滅ぼした(平禅門の乱)。
時に人は頼綱の滅亡をもって泰盛を討った報いとしたという。
《『遺文辞典』歴史篇「平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)」の項、『日蓮辞典』「平頼綱」の項、『昭和新修』別巻「平左衛門尉頼綱」「法鑒房」の項》