北条時宗
北条時宗
ほうじょうときむね
(一二五一-八四)
鎌倉幕府八代執権。
五代執権時頼の長子。
文永二年(一二六五)相模守となり、同五年一八歳で執権職につき、弘安七年四月没するまでその職にあった。
日蓮聖人は、文永五年蒙古からの牒状が到来したとき、『立正安国論』の予言が的中したのだから、速やかに、建長寺、寿福寺などへの帰依をやめ、公場において諸宗との正邪を決することを求めた書状を送った(十一通御書『与北条時宗書』)。
ところで北条時宗は、父時頼がそうであったように、日蓮聖人を理解するところがあったと思われる。考えられるその具体を示せば、反日蓮の首魁であった腹心の部下平瀬綱の反対を押し切って聖人の佐渡配流を赦免したこと。鎌倉に帰還した聖人と平頼綱ら幕閣要人たちとの会談、四月八日柳営会談の実現を指示し、聖人の意見を聴取させたこと。あるいは明白な挙証を欠くけれども、事実として次がある。熱原法難が平頼綱の憎悪こめる私的制裁の意図濃い信徒三人の斬殺ののちの裁判闘争において、日蓮一門が勝利した。農民信徒一七名が頼綱指揮下の拘束から解放されたことは法難勝利の証拠である。そしてこの事実は、文証不存であるが、執権で得宗時宗の裁量によってのことではなかったろうか、と推される。専権をふるった頼綱のいわば越権行為を制し、とがめ、日蓮信徒の釈放を断行させ得た人は時宗をおいていなかったであろう。
《川添昭二『日蓮とその時代』、『遺文辞典』歴史篇「北条時宗」の項、『日蓮辞典』「北条時宗」の項、『国史大辞典』一二巻「北条時宗」「北条氏(執権)」の項》