十一通御書
十一通御書
じゅういっつうごしょ
文永五年(一二六八)一〇月一一日系年。
真蹟は現存しない。
まず本書述作の背景について述べると、文永五年正月一八日蒙古国より国書が到来した。
これは日蓮聖人が『立正安国論』に予言警告した二難の内の「他国侵逼難」が眼前の事実として現れたのである。
これを契機に新たな諫暁運動を起すべく、まず四月五日、法鑒房へ一篇の書(『安国論御勘由来』)を呈した。
更に八月二一日には宿屋入道に対して書を送り(『宿屋入道許御状』)、『立正安国論』の予言が的中した事実を挙げて、諸宗の祈祷を止め法華の正法を用いることを主張し、執権時宗に奏上することを依頼した。
しかし何の返答もなかったので、日蓮聖人は一〇月一一日、政界の権力者と仏教界の代表者一一箇所へ強硬な諫暁の書状を送ったのである。
一一箇所とは時の執権北条時宗、執権の近侍宿屋入道、侍所々司平左衛門尉頼綱、北条氏一門の北条弥源太、鎌倉仏教界の二大実力者たる建長寺道隆、極楽寺良観、その他、大仏殿別当、寿福寺、浄光明寺、多宝寺、長楽寺である。
これらに宛てた書状を一括して『十一通御書』と呼んでいる。
その内容は相手に応じて多少の表現を異にしているが、論旨の大綱は同じである。
即ち蒙古来牒の事実を挙げて、『立正安国論』に予言した「他国侵逼難」の的中したことを証し、眼前に迫っている蒙古来襲の危機の原因は、国民がすべて正法に背き悪法を信じていることによるのであるから、今の日本国の滅亡の危機を救う方法は、速やかに諸宗の謗法を禁断して法華の正法に帰依する外にはない。
よって仏法の邪正を決するために公場において日蓮聖人と諸宗とを対決せしめよと主張し、各所へ書状を送付したことを念書している。
本書で注目されることは『立正安国論』では国難の原因を法然浄土教の流布によるものとしていたが、ここでは禅宗の興隆を災難の原因に加え、更に法華経以外の諸宗・諸経をすべて否定する「是一非諸」の主張が鮮明になっていることである。
即ち『与建長寺道隆書』に「念仏者無間地獄業、禅宗天魔所為、真言亡国悪法、律宗国賊妄説」との、いわゆる「四箇格言」である。
このラジカルな諸宗批判と『与平頼綱書』において、念仏者頼綱に対して『立正安国論』の警告を無視して日蓮聖人を伊豆流罪に処した責任を追及し、『貞永式目』の起請を破る失を指摘した痛烈な批判とが、文永八年(一二七一)の法難の遠因となったのである。
この諫暁運動について「これほどの僻事申て候へば、流死の二罪の内は一定と存ぜしが」「法華経のゆへに流罪に及ぬ。
今死罪に行はれぬこそ本意ならず候へ」(『金吾殿御返事』)と述べているように、必死の覚悟をもって日本国救済のために法華経を弘通し、謗法の禁断を迫ったのであり、捨身を念願しての法華経の行者の戦いの軌跡が『十一通御書』の諫暁であった。
日蓮聖人は一一箇所へ書状を送ると同時に、弟子檀那に対してこの事を知らせ、いかなる迫害が来ようとも権威を恐れるなと覚悟を促している(『弟子檀那中御書』)。
しかし一一箇所からは何の返答もなかった。
翌年再び蒙古より国書が到来するや、『立正安国論』を浄書し、諫暁の書状を再度諸方に送付したのである(『金吾殿御返事』)。
『十一通御書』は初め『本満寺録外』に収録され、次いで一妙日導が『祖書綱要』に再録、解説されて世に知られるようになったのであるが、内容的に果して親作か否か疑問がある。
《『遺文辞典』歴史篇「十一通の状」「与北條時宗書」「与宿屋入道書」「与平左衛門尉頼綱書」「与北條弥源太書」「与建長寺道隆書」「与極楽寺良観書」「与大仏殿別当書」「与寿福寺書」「与浄光明寺書」「与多宝寺書」「与長楽寺書」の項》