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本満寺録外

ほんまんじろくげ #3433

本満寺録外

ほんまんじろくげ

目録一冊、本文全二〇冊。
京都本満寺所蔵の録外遺文の呼称。
目録は明和三年(一七六六)、本満寺日俊の好意により本満寺録外を閲覧することのできた深草山瑞光寺二七世霊応日成(-一七七一)の作成。
録外御書目録」と題し、巻第一以下所収の遺文名を掲げ、その下に番付、更に板本録外の当該遺文収録の巻数とその丁付とを記す。
末尾に「録外目録後記」を付し、その経緯を示している。
本文二〇冊に二〇三篇を収める。
このほか同本中には、巻一四に「三身」、巻一八に「法華肝心御抄」を収めている。
前者については寂照院日乾の「此ハ録内ノ七十九番四条金吾釈迦仏供養御書ノ抜書也」との注記があり、後者には日乾のものと思われる「録内ノ十如是御書ト広略ノ異也。彼ハ広、此ハ略也」との注記があって、両書ともに本文を収めながら、その数に入っていない。

 本満寺録外は録外遺文の写本・刊本数種あるなかで、唯一の集成・書写の年次の明確なものである。
これは既に文禄四年(一五九五)本満寺一二世一如院日重が写功を畢えさせていたものである。
日重は、それまでに書写させた二〇〇篇(他に前記二篇)に次いで、同年正月元日、本寺所蔵の「一代五時鶏図」(刊本録外未入)を、同月五日に弟子日瑳=日遠感得の「土木殿御返事」(本満寺現蔵)を、同月一四日に狩野恕云感得の「土木殿御消息」(京都立本寺現蔵、刊本録外未入)を書写して加え、この三篇を第二〇冊とし「録外惣合二十冊二百三通」として、本満寺宝蔵に収めたのである。
各冊の表紙には例えば「録外第十冊 六通 日重」のように記されている。
同本第二〇冊の三篇を除く二〇〇篇(他に前記二篇)は、その筆蹟からして数人によって書写されたものである。
ただし書写した筆者の名は記されていない。
この数人による書写については、(1)筆者たちがそれぞれ個別の遺文を書写して、日重がそれを集成した、(2)すでに集成されていたものを数人が手別けして書写し、これに日重が三篇を加えて、現本満寺本とした、の二つの解釈ができよう。
しかし数人の筆者がそれぞれ諸寺所蔵の個別遺文を写すことは、当時の諸寺院における遺文の真蹟・写本の管理からして容易ではなく、その上、注記に見えるように鎌倉・中山・真間・品川・平賀・身延・京都の諸寺に散在していた個別遺文を書写することは困難であったと考えられ、逆に日重の依頼による某寺所蔵の集成された写本「録外」の転写許可を想定した場合、数人による書写の手分けを考えることができよう。
更に同本「撰法花経付嘱事」(巻第二)には、日重の筆とおぼしき「私云、是ハ録内ノ百三十三ノ最蓮房御返事也。少違タル事アレトモ大同小異也。仍除之歟」の注記があり、「祈祷経言上」(同上)には「私云、奥ハ与録内ノ祈祷抄同。私云重、此言上真偽可明之」、「新池書」(巻第四)には『日重私云、此新池抄常御文躰大異也。恐可為偽書而已」と注記している。
本満寺本がもし日重の集成によるものとすれば、このような注記は必要はないであろうから、同本は既に集成されていた録外遺文の数人による転写であると考えてよいであろう。
この本満寺本の底本になったものは、現本満寺本の第二〇冊が日重書写の右の三篇のみを収めて一冊とされていることから、二〇〇篇集成本であったと考えられ、これを原本満寺本とよんでよいであろう。
この原本満寺本集成期の上限は、巻第一七収録の「法華宗内証仏法血脈」末尾の相伝の最後に、天文五年(一五三六)没の平賀本土寺日建の名のあるところから、文五年ごろから正末年(一五九一)のころまでと考えられる。
本満寺本録外の特色の一つは、多くの校異記載が見られることで、収録篇数の三分の一を超える七四篇に校異を記載している。
その記載されたものが元来底本にあったのを転写したものか、書写に当り異本との校合の結果を記したものなのかについては、本文と同筆で前者と思わせるものもあり、別筆で後者と思われるものの二様があり、識別は困難である。
しかし日重は前記三篇の書写を畢えた二ヵ月後の文禄四年(一五九五)三月に起草した「題校訂録外御書」(深見要言刊『観心本尊抄』に付載)のなかで数年、弟子日乾・日遠らと協力して校訂に当ってきたといっているのであって、校異に意を用い、それを行ったことは確かである。
更に同本の注記には、その名を記したものに、本隆寺派開祖と思われる日真・心院日珖・日重・日乾のそれがある。
日乾の注記のなかには身延久遠寺貫首在任中の慶長九年(一六〇四)中山法華経寺登詣の折、校合したもの(『観心本尊抄送状』)、恐らくそのころに伊豆江川家訪問の折、同家所蔵の真蹟と校合したもの(『八日講御書』)があり、日乾がこの校異をのちに本満寺本に記したと考えられるものもある。
なお注記によれば「妙本寺之正統記」(巻第三・「本寺参詣抄」)・具覚僧正「五字円明抄」(巻第一七・「臨終一心三観」)・日澄「観心本尊抄私」(巻第四・「新池書」、巻第一一・「鎌隼問答」)等の逸書のあったことがしられるのである。
文禄二年(一五九三)、日重は本満寺録内二九冊にそれまで闕けていたと思われる巻第一を書写させ、録内を整え、同四年には二〇三篇の本満寺録外を書写・集成した。
こうして本満寺では文禄年において、録内・録外の遺文が整備されたのであった。
《梅本正雄刊『本満寺御書』、高木豊「『録外』遺文に関する書誌学的覚え書」『日蓮聖人研究』、『遺文辞典』歴史篇「本満寺録外」の項

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