最蓮房
最蓮房
さいれんぼう
(生没年未詳) 日蓮聖人在世当時の弟子。
最蓮房の所伝については、多くの疑問また異説もあり、詳細は不明。
最蓮房へ授けられたとする御書は多いがそのすべてについて疑義がある。
ここでは新旧の所説に従って紹介する。
最蓮房は京都の生れ、天台宗の学僧といわれるが明確な資料はない。
佐渡に流罪中に日蓮聖人に帰依し、諱を日浄と賜わったという。
日蓮聖人より先に佐渡に配流になっていたようであるが、その原因については明らかでない。
文永九年(一二七二)二月一一日、日蓮聖人から最蓮房に授けられた『生死一大事血脈鈔』に「而るに貴辺日蓮に随順し、又難に値ひ給ふ事、心中思ひ遣られて痛しく候」(定五二三頁)とある。
この書が果して真撰とすれば、日蓮聖人に帰依したため、何らかの迫害に遭ったもののようである。
また『祈祷経送状』などによると、最蓮房は病弱で折伏弘通の任に耐え難きを嘆き、それに対して日蓮聖人が特に『祈祷経』を撰して授けていることになっている。
最蓮房は日蓮聖人が文永一一年春赦免ののち、文永一二年もしくは建治元年に赦されて京都に帰ったらしい。
しかし一説には当時日蓮聖人は身延在住の時であり、最蓮房は身延へ直行し、甲州下山に居住して日蓮聖人に師事したという。
今の長栄山本国寺がその居住の地で、延慶元年(一三〇八)四月一八日この地に死去したと伝える。
一方、身延へは行かず直に京都に帰って、その地で生涯を終焉したという説もある。
この説は文永一二年二月二八日の最蓮房宛の『立正観鈔送状』に「今度の御使誠に御志の程顕れ候了ぬ。
又種種の御志慥に給候了ぬ」(定八七〇頁)という記述による。
この文永一二年は改元して建治元年(一二七五)に当り、最蓮房が赦を得て佐渡より帰った年である。
するとこの使は多分京都から遣わされ、従って最蓮房は京都に在住したという。
『立正観鈔』もまた京都へ送られたものであろうという。
その裏付けとして、身延に所蔵される身延山久遠寺三世日進写本の『立正観鈔』に記される奥書を「正中二年三月京都三条京極で最蓮房が所持していた日蓮聖人自筆の『立正観鈔』をある人が写し、いま日進が同じ年の一二月二〇日に転写」したという見解である。
そこで、文永一二年日蓮聖人が自書し最蓮房へ授けた『立正観鈔』が、それから五一年目の正中二年(一三二五)に京都の三条京極にあったと考えられ、佐渡から赦された最蓮房は、京都に帰って在住しそこで入寂したのではないかという説である。
以上紹介した如く諸説入り混じって未詳の部分が多い。
《『遺文辞典』歴史篇「最蓮房」の項、『日蓮辞典』『昭和新修』別巻「最蓮房」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人の門弟」の項、『日蓮聖人と弟子檀那もう一つの伝承説』『法華学報』別冊特集二号》