録外御書
録外御書
ろくげごしょ
録内御書に次ぎ集成された日蓮聖人遺文集の名称。
録外の語は中山門流の本成房日実の『当家宗旨名目』(寛正二年=一四六一頃)に「御書目録一冊これあり。その目録とは、弘安六年癸未十月十二日記し置き給う御書一百四十八通なり。此の記に云く、六老僧末代の為に註記し仰せ給う。さて録外の御書は数を知らず。もし数を知らば、録内同前なるべしと云云」とあるのが早く、同時期の中正院日存の『本迹対論用意抄』(文明二年=一四七〇)にも「六老僧既ニ目録ヲ定メテ、其外ハ縦ヒ真書タリト雖モ、左右ナク目録ニ入ルベカラズト定メ給フ上ハ、真偽定メガタケレバ、之ヲ用ベカラズ」とある。
これによれば録外とは「録内」収録外を意味していて、関東中山や京都では遺文を集成したものとしての録外は存在していなかったといえよう。
しかし日実・日存とほとんど同時代に真如院日住(一四〇六-八六)は、その師本覚寺日延の志を継ぎ、遺文の蒐集に努めていた。
その蒐集は康正三年(一四五七)以前から始めていたらしく、同年、讃岐高瀬本門寺に「法華真言勝劣抄」、「天台真言勝劣抄」二巻を貸した礼として『法華浄土問答抄』を贈られている。
これを弘経寺日健が文明五年(一四七三)書写した。
浅井要麟は『録外考文』の同抄考文に「草山瑞光寺宝蔵 日健師写本録外十冊有之」と註記のあるところから、日住蒐集の録外一〇冊を日住会下にあった日健が書写し、それが京都深草瑞光寺に伝来されてきたという。
しかし瑞光寺蔵とされる日健書写の録外一〇冊は、いまその所在を明らかにしない(のち同寺から残欠七冊が見出されている=補記)。
あたかもこの頃、身延久遠寺行学院日朝により、録内とは別な遺文の集成または集成されたものの書写が行われていた。
日朝の弟子円教院日意がまとめたこのセットの目録によれば全一三一篇だが、現行遺文に比定できないもの三一篇、録内八篇を含むので、実数九二篇が現行録外遺文。
日朝は右の遺文のセットに「録外」の名を付さなかったが、日意はこの目録を作製して「朝師御自筆録外御書分」の題号を付し、更に久遠寺所蔵の日蓮聖人の真蹟・写本遺文の目録を「大聖人御筆目録」としたが、なかに「録内之分」と「録外之分御筆御書」とを区別、最末に「録外御書註文 日意私所持分」として、所持本録外九〇篇を列記した。
日意の頃に至り、録内御書に対し不特定数の遺文を「録外御書」と称することが始まったといえよう。
日意所持本録外九〇篇のうち現行遺文に比定できるものは六七篇だが、これには重出六篇、録内十一篇を含むので、五〇篇が現行録外と共通する。
これを先の日朝本録外と対照すると一致するもの二三篇である。
いっぽう日意所持本と他の録外遺文とを対照すれば、五〇篇のうち三九篇が本満寺本に、四三篇が三宝寺本に一致する。
こうした点からすれば、日朝本と日意所持本とは同一系統の集成ではなく、別々に集成されたものと考えねばならないのである。
このことは録内遺文に比べ録外遺文の蒐集・集成は関東よりも京畿において進められたであろうことを推測させるものである。
録外遺文の写本・刊本は数種あるが集成・書写の年次の明確なものは本満寺本である。
これは同寺一如院日重が文禄四年(一五九五)に写功を畢えさせたもので、二〇冊、二〇三篇を収める。
もと二〇〇篇の集成に三篇の真蹟を書写して加えた集成であるが、同本諸篇への日重の注記によれば、既に二〇〇篇を収める集成本があったことが知られる。
それを原本満寺本と呼びたいが、その集成の時期の上限は「法華宗内証仏法血脈」の相伝の最末に、天文五年(一五三六)没の平賀本土寺日建の名を列ねているから、少なくとも天文五年のころから天正末年のころまでの集成と考えられるのである。
その原本満寺録外二〇〇篇に文禄四年、日重が三篇を加え二〇三篇を収録する現本満寺本が成立したのであった。
二〇三篇のうち一八四篇が現行録外と共通。
慶安二年(一六四九)刊行の「他受用御書」は浅井要麟により、遺文編纂史上、先の日朝本に次ぐ位置を与えられている。
浅井は、この遺文集が七巻一〇八篇―なかに録内八篇を含むから一〇〇篇―を収めていて三宝寺本・本満寺本に比べ収録遺文が少ないことから、これをより原初的な集成と考えたのである。
ただし「他受用御書」第三巻所収「南条兵衛七郎殿御書」に「或本ニ録内五十八入也」との注記がある。
同書を録内五八番目に置くのは、刊本録内の寛永一九年(一六四二)本・同二〇年本・寛文六年(一六六六)本・宝暦六年(一七五六)本の諸本に共通して、一見、寛永一九年以後の集成と思われる。
しかし少なくとも、先の本満寺本録外の集成に先立って書写されたと考えられる本満寺本録内もまた「南条兵衛七郎殿御書」を五八番目に置いている。
従って刊本「他受用御書」にみられた先の注記「或本ニ録内五十八入也」は、必ずしも刊行時に記された、言い換えれば慶安二年(一六四九)に先立つ寛永一九年本・二〇年本によったとしなくとも、右の或本を本満寺本録内または同種の写本とすれば矛盾はない。
しかし刊本の底本の成立時期は未詳である。
なお「他受用御書」一〇八篇のうち録内八篇、残る一〇〇篇のうち現行遺文に比定できるものは八六篇である。
「他受用御書」に次ぐとされるのが三宝寺本録外である。
浅井要麟は、これは和歌山養珠寺中正院日護が洛西鳴瀧三宝寺に閑居して、天正十一年(一五八三)定蓮房日遵に浄書させたもので、二二帖二三三篇を収めるという。
浅井はどのような史料に基づいて右の見解を提示したかは明らかにしていない。
これに対して宮崎英修は天正十一年編纂したとすれば、日護(一五八〇-一六四九)はまだ四歳で、到底編纂は考えられないことなど、数点の疑義を挙げて三宝寺本が日護によるものとする浅井の見解を否定した。
ただし宮崎は、三宝寺本「録外御抄目録」最末の「録外廿二帖 洛之西金映山三宝寺什物 中正院日護」の二行をその真筆としている。
宮崎の指摘によれば、三宝寺本集成の時期は日護の寂年であり、あたかも「他受用御書」刊行の年でもある慶安二年に先立って行われたとしかいえないであろう。
同本は二二帖二三三篇を収録、うち四篇が録内、残る二二九篇のうち二〇六篇が現行遺文に比定できる。
しかし同本は朽損はげしく翻覧不可能な状態におちいっている。
岡山県金川妙覚寺には録外御書が二本ある。
その一本は京都妙覚寺旧蔵本で、仏性院日奥はこれを対馬流謫に際して持参、その読後感を書き入れている。
集成の時期は未詳だが、所収書の識語に文明一九年(一四八七)の年次が見える。
同本の遺文配列順序は幾つかのグループに分けて対比してみれば、「他受用御書」や本満寺本よりも三宝寺本のそれに近いといえよう。
同本は二二冊一九二篇を収めるが、=一三九篇が現行遺文と共通である。
妙覚寺蔵の他の一本は、同寺では日柔の書写したものと伝えているが、なお同本のなかには識語によれば、真如院日住の所持本を書写したものも含まれている。
同本中には筆者を日柔とする徴証はない。
日柔とは元和九年(一六二三)日奥制定の「妙覚寺法度条々」に署名した円乗院日柔と考えられる。\
同本は収録する「早勝口伝」の相伝が、平賀門徒の日福(宝徳二年=一四五〇没)―日朝―日祐とあるところから(二人の没年は未詳)、同本の集成は宝徳二年を遡らないといえよう。
残欠一五冊、全一七八篇、一四六篇が現行遺文に比定できる。
同本については先の日奥所持本との書承関係が予想されようが、それよりも遺文の配列順序が日奥所持本のそれが―グループ別にすればであるが、三宝寺本に近かったのに対して、これは刊本録外に近く、大同小異ということができ、あるいは刊本は同本または同系統のものを参照したのではないかと考えられる。
次いで浅井要麟によれば、玉沢妙法華寺に寛永八年(一六三一)日奥の弟子安国院日習書写の録外が伝えられたという。
これまた残欠本で一四巻を残すのみである。
日習が日奥の弟子であるところから、先の日奥所持本あるいは妙覚寺蔵別本録外との書承関係が予想されるが、同本の所在不明で確かめ得ない。
以上の写本のほか、延山録外と称せられる一五篇を収める写本が存在する。
先の日朝本や日意の目録にも未入の遺文であるが、聖人遺文としての信憑性は高い。
加藤文雅・稲田海素編『日蓮聖人御遺文』(縮刷遺文)に初めて収録された。
更に浅井要麟によれば、京都妙蓮寺日感(寛文四年=一六六四寂)に、二三六篇の録外遺文をイロハ順に配列したものがあったという。
以上の録外遺文の蒐集・集成を承けて、これを集大成したのが寛文二年二月刊行された二五巻、二五九篇を収める刊本録外であった。
京都二条松屋町山屋治右衛門による版行。
更に同九年正月、武村市兵衛昌常・村上勘兵衛元信・山本平左衛門常知・八尾甚四郎友春ら四人は寛永二〇年本の録内と寛文二年本の録外とを重印している。
四人の連合になるこの版行は合資によるものであると共に、このとき四人は法華宗門書堂と称している。
これより先、受不施・不受不施派の対立が不受派の弾圧をもって最終的に決着した寛文五年、関東諸本寺の貫首が連合して「法式」を定め、そのなかに「秘書を貸し与え板行すべからざるの事」を加えていたから、この禁止下での出版は宗門の許可を得なければならない。
法華宗門書堂とは板行を認可されたことを明示するものであり、連合合資もそれに基づいてのことであったろう。
次いで宝暦四年(一七五四)中山法華経寺本是院日貞は、法華経寺に真蹟が所蔵されていながら、刊本録外に漏れた富木氏宛の書状七篇(定本番号一〇一・一二六・一六二・一九五・二一一・三八九・三九八)および同寺所蔵の真蹟を写した一六三「可延定業御書」を掲げ、続二四「此経難持十三箇秘決」を付加する纂訂を行った。
更に安永四年(一七七五)悦可院日巧は「他受用御書」・刊本録外と三宝寺本・本満寺本とを対照して、異篇と本是院日貞の纂訂したものと合せて六巻三六通とし、これを「拾遺録外」と題し、書笈に蔵(おさ)むとしたが、現在、本書の所在は不明。
次いで天保一三年(一八四二)英園院日英は本満寺本・三宝寺本と刊本録外とを対照して、刊本未入のものを上巻三上(三種教相・同要文)・巻之中(遺文六篇および録外書補欠、日興上人奏書・同言上・常忍不審状二通・日像法華弘通抄・行敏状・同奏状・弘仁状)に収め、本是院日貞纂訂の九篇を巻之下に収録して、これを『祖書続集』と題し刊行した。
版は先祖代々の追善菩提を意図して、これを援助した山本某の蔵するところであったが、のち平楽寺村上勘兵衛の手に帰した。
なお本書を『御書続集』と称するが、それは同本の貼外題に「御書続集」とあるに基づく。
しかし日英の付言には「題して祖書続集という」と明記し、三巻の内題にも共に「祖書続集」とある。
従って元来は『祖書続集』と呼んだものであって、あるいは村上勘兵衛の店から売り出されるに当り『御書続集』の貼外題がなされ、この書名が普及したのではないかと考えられる。
録外御書の集成は、この書をもって終ったのであるが、昭和四二年(一九六七)に至って梅本正雄により本満寺本録外が写真製版され『本満寺御書』として刊行された。
《浅井要麟「遺文編纂の史的概観」『日蓮聖人教学の研究』、宮崎英修「中正院日護と一糸文守」『波木井南部氏事蹟考』、高木豊「諸本解説」『日蓮―日本思想大系』一四、同「遺文の写本について」『大崎学報』一二五・六合併号、同「近世日蓮教団の動向」『近世法華仏教の展開』、同「録外遺文に関する書誌学的覚え書」『日蓮聖人研究』、『遺文辞典』歴史篇「録外御書」の項》
(高木豊)
【補記】録外御書の写本について近時、冠賢一氏により所在不明とされていた瑞光寺本(日健本、残欠七冊)が確認され、さらに日曜本(残欠二冊)瑞光寺蔵)、本遠寺本(残欠一冊大野本遠寺蔵)が新たに招介された。また池田令道氏によれば、東京妙観文庫にもAB二本(ともに残欠一六冊)の録外写本があるという(「日蓮遺文の編纂と刊行」『シリーズ日蓮2 日蓮の思想とその展開』)。身延文庫所蔵の『日朝本録内・録外』および『録外御書』(延山録外)についても、池田氏により解明が進められている(『興風』二一号・二六号・二八号)。「延山録外」項の【補記】を参照。