仏性
仏性
ぶっしょう
buddhatā,buddhatva如来蔵、覚性などとも訳される。
仏果を成就するための因性・可能性をいう。
小乗仏教では声聞・縁覚の成仏を認めず、仏性を語らないが、大乗仏教になると次第に成仏の範囲が拡大され、原則として一切衆生の成仏を認めるようになる。
その代表例が『大般涅槃経』で、一切衆生悉有仏性を説き、仏性常住を主張する。
天台大師智顗(五三八-五九七)もこの説によったが、ただし一切衆生に平等に具有される不生不滅の仏性とは、普遍的な真如理性に外ならず、真如を具有するというだけでは成仏は実現できないから、三因仏性を立てる。
『法華玄義』五下で迹門十妙の第五の三法妙を論ずる中に類通三法の項があり、そこでの説明によると、正因性は真性軌、了因性は観照軌、縁因性は資成軌であるという。
真性軌とは真如実相の理、観照軌とは真性軌を顕し出す智徳、資成軌とは観照軌を資けて真性軌を成就する行願をいう。
しかも円教の三法は三即一・一即三であるから、三因仏性は理・智・用の三でありながら、智・用は理に内具された徳であるから、正因仏性だけでなく、三因仏性みな天然の性徳である。
類通三法の説明は『金光明経玄義』にもある。
また『法華文句』一〇上の不軽品釈では「仏性に五有り」として、不敢軽慢の正因性、読誦経典の了因性、皆行菩薩道の縁因性と共に、果性・果々性を加えて五仏性を明かすが、天台宗は三を基数とする習いであるから、三因仏性が多く用いられる。
仏性論は日本天台宗の開祖伝教大師最澄(七六七-八二二)に至って高潮した。
法相宗の徳一との論争がそれで、最澄は一切皆成、徳一は五性各別(ごしょうかくべつ)を立場として互いに譲らず、最澄が『涅槃経』の一切衆生悉有仏性によって五性各別を否定すれば、徳一はその仏性とは理仏性であって行仏性ではない。
真如理は凝然不動であるから、理仏性の有無は成仏と関係なし、行仏性の有無こそ成不成を決定するものであり、これの有無によって五性各別を立てるのであると反論する。
そこで最澄は、真如は不変であるばかりでなく、随縁(活動性)もする。
故に理あれば行ありと反駁し、互いに千経万論を引用し合って論争したが、最澄の入滅によって一往終結する。
その経緯は『守護国界章』の下巻、『法華秀句』の仏説已顕真実勝一などにくわしい。
恵心僧都源信(九四二-一〇一七)は『一乗要決』を著して、最澄の義を補足した。
常盤大定『仏性の研究』はこの両者の仏性論争を中心に解説した書物である。
日蓮聖人はこれらの仏性論を知悉しておられたに違いない。
それは聖人の読書範囲を検べることによって、十分に論証できる。
しかし真如理に基づいた悉有仏性論は所詮は観念論であって、末法濁悪の世にあって人類の福祉をめざす上には却って去年の暦、昨日の食にすぎないとしてこれを内面に伏せておき、新たに仏種(ぶっしゅ)の下種(げしゅ)を起すことを自身に課された責務とされた。
従って例えば『法華初心成仏鈔』に「一度妙法蓮華経と唱れば、(略)一切衆生の心中の仏性を唯一音に換顕し奉る功徳無量無辺也」(定一四三二頁)等と仏性常住・一切衆生悉有仏性に根ざした教説もあるにはあるが、下種の方を寧ろ宗旨とされた。
《『遺文辞典』教学篇「仏性」の項、『日蓮辞典』『天台学辞典』『岩波仏教辞典』「仏性」の項》