仏種
仏種
ぶっしゅ
athāgatatva(法華経方便品)buddha-vaṃśa(八十華厳・入楞伽経・月燈三昧経など)buddha-gotra(尼乾子経)等の訳。
成仏の種子。
仏の種姓、即ち仏の系統に属して仏となる必然性、仏としての潜在性を意味し、元来は仏性と同義語である。
しかし性とは不改の義であって、外的な一切の影響を受けないで常に同一の本質を保つことであるから、仏性は本有不改・永遠不滅の因性であるに対して、種は作られたもの、また保管の仕方が悪ければ腐り、敗種となるから、仏種は有為のものであり、生滅変化するものであるという印象をうける。
法華経はこの印象を助長している。
即ち方便品の偈には「諸仏両足尊 法は常に無性なり 仏種は縁に従って起ると知しめす」とあり、譬喩品の偈には「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば 則ち一切世間の仏種を断ぜん」とある。
これによれば仏種は縁によって生起し、また信不信によって断滅するものであることになる。
ちなみにこれに対する天台大師智顗の解釈は『法華文句』の会本一二の方便品釈に「仏種従縁起とは、中道無性は即ち是れ仏種なり。此理に迷ふ者は無明を縁と為るに由て、則ち衆生の起ること有り。此理を解する者は教行を縁と為るに由て、則ち正覚の起ること有り(略)又無性とは即ち正因仏性なり。仏種従縁起とは即ち是れ縁了なり。縁を以て了を資くれば正種起ることを得」という。
中道無性とは真如であるから、仏種とは即ち正因仏性を指している。
教行を縁とするとは、教は了因仏性、行は縁因仏性である。
正因仏性が了因・縁因を縁とすることによって顕現することを仏種従縁起と解したわけである。
次に同じく会本一六の譬喩品釈では「断世間仏種とは、浄名は煩悩を以て如来種と為す、此れ境界性を取る也。大品は一切種智を以て般若を学す、此れ了因性を取て仏種と為す。涅槃は心性の理の断ぜざるを用ふ、此れ正因性を取て仏種と為す。今経は小善成仏を明す、此れ因縁を取て仏種と為す。若し小善成仏を信ぜざれば即ち世間の仏種を断ずれば也」とて、ここでの仏種とは因縁であるとする。
つまり仏種の概念は経によって必ずしも一定せず、説かれる場面によってあるいは正因の意味であったり、了因・縁因の意味であったりするもので、方便品の仏種は正因であったが、譬喩品の仏種は縁因の意味であるという。
しかし方便品の正因種も教行の浄縁なくしては生起しないから、仏種が起きることを仏種有り、仏種が起きないことを仏種なしと換言することも可能となる。
方便品の仏種釈に関する湛然の『記』の扶釈では、正因仏性を性種と呼び、これに対して教の了因、行の縁因を修得・種縁・類種と呼んで仏種たる意味を与えているし、更に「種とは生の義なり」というに至っているから、常識的には修得なる了因・縁因の両仏性の方を寧ろ仏種と呼んでいるかに思える。
まして『法華玄義』一上における三種教相の第二化道始終不始終相で説かれる種熟脱の三益(さんやく)、『法華文句』一〇上の不軽品釈における本已有善・本未有善(ほんいうぜん・ほんみうぜん)等を顧みるとき、本未有善の者に対しては下種がなければ度脱はあり得ないというのであるから、その種とは教たる了因仏性、行たる縁因仏性の意味であって、真如理たる正因仏性ではない。
真如理性は普遍常住のものであるから、真如理性につけば、本未有善の者が存在するはずもないし、従って下種も不必要となるからである。
日蓮聖人は末法濁悪の世に処して、仏性遍不遍・一切皆成不成の論よりも、三益論に基づいた下種(げしゅ)を末法の法華経の行者の責務とされた。
従って遺文中には仏性の開発という勧めよりも、仏種を植えるという勧めの方が圧倒的に多い。
例えば『曽谷入道殿許御書』に「濁悪の衆生、此の(地涌)大士に遇て仏種を殖ゆ」(定九〇四頁)、『撰時抄』に「悦ばしきかなや、楽しいかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(定一〇五二頁)とは、聖人が諸宗の「大謗法の根源をただす」行為を指して仏種をうえるといわれる。
『妙法比丘尼御返事』に「此度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るる身とならん」(定一五五三頁)とは聖人の出家の動機である。
では聖人が示された仏種とは何か。
『本尊抄』には「華厳経大日経等は(略)本有の三因之なし。何を以てか仏の種子を定めん」(定七一一頁)、「一念三千の仏種」(同頁)、「在世の本門と末法の初は一同に純円也。但し彼は脱、此は種也。彼は一品二半、此は但だ題目の五字也」(定七一五頁)とて、ほぼ三箇所に仏種の語がみえる。
本有の三因とは本有の三因仏性であり、直前に「速疾頓成、之を説けども三五の遠化を忘失し、化道の始終跡を削りて見えず」とあるから、三千塵点劫の初めの大通結縁、五百億塵点劫の元初の久遠下種を指して本有の三因という。
三五遠化は元初であり、本有である。
一念三千は「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此珠を裏み」(定七二〇頁)とあるから、妙法五字に含有される珠であり、結局は妙法五字をもって仏種とすることになる。
妙法五字は真理ではなくて教乗であるから、教乗種をもって仏種とされたわけである。
『小乗大乗分別鈔』に「法華経の種」「法華経に来て始て仏種を心田に下して」(定七七六頁)、『曽谷殿御返事』に「法華経は種の如、仏はうへての如、衆生は田の如なり」(定一二五五頁)、『法華初心成仏鈔』に「何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(定一四二六頁)、『教行證御書』に「本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(定一四八〇頁)、『秋元御書』に「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成給へり」(定一七三一頁)等は皆妙法五字を仏種とする明文である。
では何故に妙法五字が仏種なのか。
『本尊抄』に曰く「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」(定七一一頁)とあるのが、その基本的理由である。
釈尊の因行果徳の二法とは〈一念三千→十界互具→因果→釈尊の因果〉と帰納された結果の所産であるが、これが衆生に本具されていると見れば正因仏性為本であり、この時の仏種は性種である。
これが妙法五字に具足されていると見れば、了縁両因仏性為本であり、乗種である。
また性種を理種、乗種を智種と呼ぶ場合もある。
《『遺文辞典』教学篇「仏種」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「仏種」の項》
(浅井円道)