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本已有善・本未有善

ほんいうぜん・ほんみうぜん #3403

本已有善・本未有善

ほんいうぜん・ほんみうぜん

本已有とは「本と已に有り」と読む。
とは『補注』に「大」とあり、日蓮教学では仏種とする。
過去久遠に法華経を聞法し、仏種を心田に植えられた人の謂。
本未有とは「本と未だ有らず」と読む。
未だ曽て聞法下種されたことのない人の謂。
天台大師智顗の『法華文句』巻一〇上の不軽品釈の中に「問ふ、釈迦は出世して踟躕して説かず、常不軽は一たび見て造次にして言ふは何ぞや。答ふ、本と已に有れば、釈迦は小を以て之を将護したまふ。本と未だ有らざれば、不軽は大を以て強て之を毒す云云」の文から生れた語である。
踟躕とは『補注』に「行、進まざる貌」とあり、直ちに一乗を説くことを手控えること。
造次とは「急遽」の意。
在世の衆生は本已有善であったから、既に植え付けられた種を育成調熟するために釈尊は浅法の小乗から深法の大乗と漸次に説き聞かせ、機根が十分に成熟したときを見て、法華経を説いて解脱の益を得せしめた。
しかし不軽菩薩の時は本未有善の衆であったから、まず下種しなければならない。
下種するときの種は小大どんな種でもよいというわけには行かない。
最良の種でなければならないから、直ちに強て法華経を説いて衆生下種したということである。
従ってこれは種熟脱三益法門を基として立てられた問答である。
日蓮聖人は『法華文句』のこの問答を諸処に引用される。
『唱法華題目鈔』に「方便品等には(若但讃仏乗衆生没在苦とて)機をかがみて此経を説べしと見え、不軽品には謗ずとも唯強て之を説くべしと見え侍り。一経の前後水火の如し。然るを天台大師会して云く、本已有然(略)而強毒之文。文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説べし。然に其中に猶聞て謗ずべき機あらば、暫く権経をもて(機を)こしらへて後に法華経を説べし。本と大の善根もなく、今も法華経を信ずべからず、なにとなくとも悪道に堕ぬべき故に、但押て法華経を説て之を謗ぜしめて、逆縁ともなせと会する文也。此釈の如くんば、末代には無善者は多く、有善者は少し。故に悪道に堕せん事疑ひなし。同くは法華経を強て説き聞せて毒鼓の縁を成すべき歟。然れば法華経を説て謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひなき者をや」(定二〇四-五頁)とあるのは、本未有善の機に対して而強毒之し、謗者に毒鼓の縁を結ばしめるべき時とは今末法である点には言及されるが、本抄は佐前の文応元年三九歳の作であるから、まだ「」とは何かという点に対して従容たるものがある。
しかるに文永一二年(一二七五)五四歳作の『曽谷入道殿許御書』になると、この点も明瞭になる。
「問て曰く、一経二説(無智人中莫説此経・不可分布妄授与人と不軽品)、何れの義に就て此経を弘通すべきや。答て曰く(略)文句十に云く、問曰釈迦出世蜘躕不説(略)而強毒之等云云。釈の心は寂滅・鹿野・大宝・白鷺等の前四味の大小権実の諸経・四教八教の所被の機縁、彼等の過去を尋ね見れば久遠大通の時に於て純円の種を下せしも、諸衆、一乗経を謗ぜしかば三五の塵点を経歴す。然りと雖も下せし所の下種純熟の故に、時至て自ら繋珠を顕はす。但し四十余年の間過去に已に結縁の者も猶ほ謗義有るべきの故に、且らく権小の諸経を演説して根機を練らしむ(略)仏滅後に於て三時有り。正像二千余年には猶ほ下種の者有り。例せば在世四十余年の如し。機根を知らずんば、左右なく実経を与ふべからず。今は既に末法に入って在世結縁の者は漸々に衰微して権實の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの也」(定八九六-七頁)という。
ここでは本已有とは「久遠大通の時に於て純円(法華)の種を下」された人と、種熟脱三益論に則って明瞭に規定される。
久遠大通下種とは、久遠の本時に本仏釈尊から聞法下種された人、および三千塵点の昔に大通智勝仏の世に十六王子に従って聞法下種された人という意味である。
久遠大通下種の人は仏の在世において、あるいは権小の説教の時に毒発して脱益を得たものもあり、あるいは小・権と次第に聞法して機根を調熟し、遂に法華を聞いて脱益を得たものもある。
要するに本已有の者には熟脱の益を与えるために、浅法より深法へと次第して説かねばならない。
従ってまた久遠大通下種の人の大部分は在世に脱益を得て、少部分の人が仏滅後に残留する。
正像二千年はこれらの人および在世の法華時に下種れさた人に熟脱の益を与えるのが目的であるから、在世と同じく従浅至深の説法でなければならない。
かくて末法には久遠大通下種の人および在世下種の者は僅かしか残留せず、大部分が本未有の人であるということになって、新たに種熟脱の化道が開始されねばならないから、直ちに法華経を強て説き聞かせるべきであるということになるのである。
末法本未有善の説明は、遺文ではと場合によって一定しない趣きもあるが、大筋は以上の通りである。
《『遺文辞典』教学篇「本已有」「本未有」の項、『日蓮辞典』「本已有」「本未有」の項、『台学辞典』「毒発不定(どくほつふじょう)」の項》

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