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脱益

だっちゃく #4544

脱益

だっちゃく

種・熟・脱三益(→さんやく)の一つ。
久遠五百塵点劫の過去に下種された者、大通智勝仏の第一六王子たる釈迦牟尼仏に三千塵点劫の昔に下種された者の種子が、中間および釈尊今日の前四味の説法によって次第に成熟し、今日釈尊の法華経説法を聞いて得脱の利益を得ることをいう。
故に脱益成仏と同義語であるが、宗義としては三益論の中で論議されるのが一般である。
脱益を得る場面は、久遠下種の者の場合は、過去に成熟し近世に脱益を得た者は地涌の菩薩であり(『法華文句』一)、その他の久遠下種の者および大通結縁の者は中間ないし在世今日の前四味に成熟し、遂に法華を聞いて得脱する、在世脱益者である。
在世の法華を聞いて下種益を得た者は正像二千年の先権後実の法を聞き、法華に入って脱益を得るとされる。
末法下種された者は、順縁は法華経を受持して釈尊の因行果徳自然譲与され、種即脱の利益を受け、逆縁は法華誹謗の罪によって一旦は地獄に堕ちるが、やがて出獄し法華を信受して遂に脱益を得るに至ると不軽品に説く。
それらのことは『本尊抄』『小乗大乗分別鈔』『曽谷入道殿許御書』等にくわしい。
在世と末法とを種脱相対することは『本尊抄』に「在世の本門と末法の初とは一同に純円也。但し彼は脱、此は種也。彼は一品二半、此は但だ題目の五字也」(定七一五頁)とあり、在世の釈尊の一品二半(涌出品後半・寿量品・分別品前半の本門正宗分)は大通結縁・久遠下種の者に脱益を与えるための法であり、末法の日蓮の妙法五字は本未有善の者に下種益を与えるための法であるという。
そこから釈尊一品二半末法の我ら衆生には無益の法であるという判断が生れることになる。
また『開目抄』に「種をしらざる脱なれば、超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし」(定五七九頁)等とあるから、脱益よりも下種益の方が大であるかの如くに感ぜられる。
そこで日蓮聖人滅後に至り、日隆門流日興門流、中でも日興門流の堅樹日寛(一六六五-一七二六)は、種脱相対して、文上の一品二半は脱益のための法にして末法無益であり、在世の釈尊は脱益の教主であって末法下種の教主に非ず、脱仏であるとして斥け、本因下種の教主たる名字凡夫の日蓮聖人を末法の本仏なりとして日蓮本仏論を主張する。
このように釈尊よりも聖人を尊崇することは、宗門人の宗教感情としては一応は当然のことであるが『折伏教典』によると、釈迦脱仏・日蓮本仏は日蓮聖人自身が述べられた御義であるとして、種々の遺文を引いてその証拠に供するということになると、も早や非常識の謗りを免れない。
我らの唱題は日蓮聖人の出世なくしては存在し得ないが、日蓮聖人の題目五字は釈尊の法華経なくしてはあり得ない。
日蓮聖人信仰は本仏釈尊・法華経に対する信仰であるから、釈迦脱仏、法華経末法無用論が聖人の御義であると主張すれば、聖人の帰依の対象はなくなってしまうことになるからである。
《『遺文辞典』教学篇「脱益」の項》

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