妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日隆門流

にちりゅうもんりゅう #3175

日隆門流

にちりゅうもんりゅう

慶林房日隆(一三八五-一四六四)を派祖として形成された団で、八品派あるいは本門法華宗法華宗本門流とも呼称される。
日隆は八品正意の義を立て、法華経の真理は二十八品中の内、とくに従地涌出品第十五、如来寿量品第十六、分別功徳品第十七、随喜功徳品第十八、法師功徳品第十九、常不軽菩薩品第二十、如来神力品第二十一、嘱累品第二十二の八品にあるとした。
また日隆の門流は法華経の種脱論を展開し、日興門流にも大きな影響を与えていることに注意しなくてはならない。
一四〇〇年代の初め京都にあって日蓮団の指導的役割を果した四条門流では、比叡山による妙顕寺の破却と僧侶追放にあって、内訌が激化していった。
妙顕寺は将軍足利義満の命で再興されて、月明が五世となったものの、月明は一致義を唱えて、法華経の真理性を経典全体に拡散することで、保守的、妥協的な現状肯定的傾向を打ち出し、寺内に浪人を養い権威確立に専念し、外に向ける宗義研鑽にはあまり熱心でなく強義折伏の弘通に熱意がなかった。
これを不満とする四条門流内の者は妙顕寺からの分立独立を計った。
日隆も応永二二年(一四一五)に高辻油小路五条に本応寺を開き、勝劣義を唱えて布教活動を行い細川満元の外護を得て、独立の動きを示した。
しかし応永二五年に月明は分立を認めず四条門流への帰伏を要求した。日隆は一旦帰伏を承諾したものの本応寺大衆の反対などにより再び離反し、本厳寺を開いた。
更に応永二七年には外護者の細川満元の援助により摂津尼崎に本興寺を開いた。
また永享五年(一四三三)には本応寺を六角大宮に移して本能寺と改め、本興寺と共に両山一寺体制を確立し布教に専念することとなる。
たとえば、永享七年には駿河岡宮光長寺の本果院日朝が上洛し日隆と会見し、八品主義弘通の盟約を結んで八品主義を学んでおり、帰後は八品主義の折伏弘通をおこない、甲斐、駿河、伊豆に教線を伸張させ、駿河に本国寺、本蓮寺、伊豆に安立寺を建立している。
宝徳二年(一四五〇)には日隆は堺の木屋、錺屋某の外護のもとに顕本寺を開き、更に中国、四国地方にも遠出し、備前牛窓の妙顕寺末を改めて本蓮寺とし、備中に本隆寺を開き、四岐宇田津に本妙寺を開いている。
また特筆すべきは尼崎本興寺に入った種子島出身の日典の存在である。
日典は最初律宗僧侶で宝徳三年に日隆に帰伏したとされ、寛正二年(一四六一)には種子島に帰り強義折伏の弘通を行ったが受けいれられず刑死するにいたった。
だが弟子の日良の活躍によって領主氏を帰依させることに成功し、全島民を法華宗に改宗させた。
文明年中(一四八〇年ごろ)には日隆の弟子日増が来島し永良部島にも線を伸張させている。
かくして日隆門流は、八品主義のもとに四三〇年から一五〇〇年にかけて、京都を中心にして線を拡大して行き、その中核は本能寺、本興寺および光長寺それに京都の妙蓮寺、また上総の鷲山寺であった。
だが、本山同志の連合と統一が十分でなかったことにより、各本山が分散独自の線をとったために次第に他派に押されるようになる。ことに関東地域では一致方の身延派との教線拡張競争において遅れをとることが目立ち戦国末には岡宮の光長寺は勢力を後退され、自門に属した有力な拠点を身延派に吸収されている。
たとえば甲州休息の立正寺は末寺ともども天正二〇年(一五九二)に身延派に改派している。
また鷲山寺も近世初めには身延系の僧侶によって支配され、同地内にある身延派本山の妙光寺に線を脅かされ勢力を後退させている。
畿内における本能寺、本興寺は両寺一山制のもとに独自の線を確守しているものの、法華団の主流は一致方に占められるようになり次第に守制に立たされることになる。
かくて江戸代には富士門流、陣門流、真門流らと共に勝劣派を形成し反主流の立場に立たされている。
明治維新以後には身延を中心にした法華教団の統一に反対し明治九年(一八七六)二月に本門法華宗と改名し、宗団法により法華宗(陣門流)と本妙法華宗(真門流)と合同して、法華宗として宗制認可されている。
昭和二一年(一九四六)四月八日に法人を設立するとともに真門陣門両派と分立している。
所属寺院は凡そ三六〇余ヵ寺、教会一四〇ヵ所を数える。
《『日蓮団全史』上、『身延山史』、辻善之助『日本仏教史』中世編、小松邦彰・花野充道『日蓮教団の成立と展開』(春秋社『シリーズ日蓮』三)、『日蓮辞典』「日隆門流」「本門法華宗」の項

← 事典トップ