四条門流
四条門流
しじょうもんりゅう
九老僧の一人肥後房日像の系統をいう。
日像は幼少の時日蓮聖人の臨終にのぞみ帝都弘通の委嘱を受けた。
後年京都四条西櫛笥西頬(くしげにしつら)に妙顕寺を建立して京都開教の遺命を果した。
妙顕寺を中心とする系統を四条門流というのはこの地名による。
また以前綾小路大宮に住坊を構えていたので、一部には大宮流ともよばれる。
永仁二年(一二九四)四月一四日入洛した日像は、三黜三赦の法難を乗越え、建武元年(一三三四)妙顕寺は教団最初の勅願寺となり、ここに弘通の公認を得るに至った。
日像は妙顕寺を弟子大覚に付嘱し、康永元年(一三四二)七四歳で遷化。
大覚の時妙顕寺は更にめざましい発展をとげ、日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号、大覚は大僧正に任ぜられた。
大覚のあとを朗源が継ぐが、永和四年(一三七八)に遷化したため後住を定めず、日実・日成・通源日霽の間に後継問題が起った。
これを合議の上、鬮(くじ)で決めた結果通源が妙顕寺の貫主となった。
日実・日成はこれを不満とし退出して妙覚寺を創建。
その後さらに日誉は弘経寺、妙智は妙願寺、定厳は妙教寺をそれぞれ創建して分立した。
一方妙顕寺は叡山僧徒に破却されるが、将軍義満は寺地を与えて再興し、鎌倉妙本寺の寺号を移して妙本寺とした。
通源のあと月明が継いだが、いよいよ宗風乱れ、しかも叡山の徒は再び妙本寺を破却した。
柳酒屋が四条妙顕寺跡に立本寺を建立、月明の弟具円を迎えようとしたが、大衆の中に不満をいだく者があって彼らは五条大宮に本仏寺を建立した。
ところが月明は本仏寺に入って妙本寺と改称するに及んで、立本寺はここに日実を迎えて妙本寺から独立し、更に日慶・日存・日道・日隆らも分立し弘法活動を展開した。
ここに妙本寺の勢力の大半を失うが、分立した諸寺はそれぞれ日朗・日像・日覚を開山に迎ぎ、門流の正嫡を誇って活発な動きを展開しておおいに栄えた。
《影山堯雄『日蓮教団史概説』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日蓮辞典』「四条門流」の項、『国史大辞典』一三巻「妙顕寺」の項》