妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

勅願寺

ちょくがんじ #876

勅願寺

ちょくがんじ

勅願所ともいう。
皇の発願により鎮護国家、天下安穏、皇室繁栄を祈願するために建立された寺、また特別に御帰依のあった寺をいう。
広義には親王、女院の発願によるものを指す場合もあるが、これを狭義には御願寺といい区別する。
しかし両者の区別は余り厳格にされておらず、後者をも一般に勅願寺と称する場合の方が多いようである。
勅願寺という呼称は鎌倉時代以後で、それ以前にはこの制はなかった。
勅願寺には天皇の御位牌(先皇の場合)、あるいは御寿牌(今上天皇の場合)を本尊の脇に奉安し祈願、祈祷する。
日像は日蓮聖人の遺命を受け帝都布教を志し、三黜三赦の後、後醍醐天皇より建武元年(一三三四)四月一四日「妙顕寺は勅願寺たり 殊に一乗円頓之宗旨を弘め冝く四海泰平之精祈を凝すべし者 気此の如し 之を悉せ以て状す」の綸旨を賜わった。
このは、これにより妙顕寺が教団初の勅願寺となったのみならず、京都布教が認められ、立教開宗以来初めて日蓮聖人の独自性が天下に公認されたであり、教団にとって特筆されるべき大件であった。
これを嚆矢として三位日静も足利尊氏との縁故により公武に接近し、貞和四年(一三四八)五月一五日光明皇より綸旨を賜わり本寺を勅願寺となした。
洛中法華宗公認となるや諸山の高僧が京に進出し法華寺院が建立され、競って公武への接近を試み、公武よりの出家者を迎え入れ、いわゆる稚児貫首の出現をみるに至った。
ために洛中における法華宗の勢力は俄に強力となり叡山と衝突し、近くは妙顕寺の破却、遠くは文法乱を引起す一因となっていった。
また徒らに僧位僧官を求め、心ある僧は分立し、日実、日成、日隆らの分派を生ずることとなった。
これら一連の件は妙顕寺、本国寺の勅願寺としての権威が余りにも強く初期団としては公武接近が最も確実にして安易な勢力増強策であると見たことによる。
妙顕寺、本寺の他に本成寺(光明帝)、妙満寺(御奈良帝)、本禅寺(同帝)、本満寺(同帝)、尼崎長遠寺(後陽成帝)、本隆寺(明正帝)、寂光寺(霊元帝)、久遠寺(中御門帝)等、その他数多くの勅願寺がある。
しかしこの勅願寺は明治四年(一八七一)八月、大政官令をもって廃止された。
《『史大辞典』五巻「御願寺(ごがんじ)」の項》

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