三黜三赦
三黜三赦
さんちつさんしゃ
日像が受けた法難で、京都を三度追放され三度赦されたのでこの名がある。
日像は永仁元年(一二九三)二五歳の時京都に上ることを決意し、同年一〇月二六日より鎌倉由井ケ浜の寒風に身をさらし自我偈百巻を誦し、上洛布教の所願成就と身心の耐難を試練し、翌年二月満行、これより日蓮聖人ゆかりの霊跡巡拝を続け、途中能登では真言宗石動山天平寺の僧満蔵を論伏し日乗と名を授けた。
その後日乗は今日の滝谷妙成寺の基礎を築いた。
かくして同年四月日像は京都に着き、まもなく柳酒屋仲興・小野妙覚らの有力な商工業者の入信を得、徳治元年(一三〇六)七月には洛北松ケ崎に布教、全村ことごとく改宗し、村民が喜びのあまり題目を唱えながら踊ったという。
これより題目踊りが始まったと伝える。
このように教線を拡大していくうちに他宗徒の迫害が厳しくなり、叡山を始めとする諸宗の讒奏により、入洛後一四年目の徳治二年五月二〇日、院宣を受け土佐国幡多に流罪された。
しかし実際は配所に赴かず、洛南の山崎にとどまっており、延慶二年(一三〇九)八月二八日赦され帰洛した(第一回追放と赦免)。
日像は帰洛の翌三年三月八日、再び院宣を蒙って紀伊国獅子ケ背に流され、翌応長元年(一三一一)三月七日、赦免されて綾ノ小路大宮に居住した(第二回追放と赦免)。
こうした期間中にも布教伝道は続けられ、洛南鶏冠井(かいで)の真言寺実賢・深草極楽寺良桂らを論伏し入信させ、それぞれ真経寺・宝塔寺とした。
また正和二年(一三一三)には北野天神前における説法を聞いて、嵯峨大覚寺の僧で近衛家の出身と伝える大覚妙実が入信した。
かくて教勢は隆盛の一途をたどるが、元亨元年(一三二一)一〇月二五日、日像は三たび京都を追われ備後国尾道に流罪となった。
しかし翌一一月八日、わずか一〇余日にして赦免となった(第三回追放と赦免)。
帰洛した日像は朝廷より土地を下賜され、京都開教以来三〇年にして、今小路の地に妙顕寺を開いた。