大覚妙実
大覚妙実
だいがくみょうじつ
(一二九七-一三六四)
日像(一二六九-一三四二)の弟子で、京都妙顕寺の二世を継ぎ、京都を中心に中国地方にまで至る地域の日蓮宗発展に大きな足跡をのこした。
世に「大覚大僧正」と敬われている。
公家の名門として知られる近衛家に縁故のある出自で(一説に近衛経忠の子とあるが、これは誤り)、永仁五年に生れ、貞治三年四月三日、六八歳で没した。
大覚は幼名を月光丸・羅睺羅丸といい、早くから出家して僧侶としての道を歩んでいた。
一七歳の時、即ち正和二年(一三一三)、京都に伝道する日像の説法を聞いて宗を改め、その弟子となって「妙実」の名を授けられた。
これから後、日像の右腕となって働き、日蓮宗の教線発展に尽くした。
その役割は、(1)は日蓮宗の公武接近を推進したことであり、(2)は備前・備中・備後地方(岡山・広島県)に伝道して、後の備前法華の礎を築いたことであった。
大覚妙実が妙顕寺の第二世貫首となった康永元年(一三四二)の当時は、南北朝内乱のまっただ中であり、足利幕府の基礎もまだ固まってはいなかった。
このような不安の中で、妙顕寺では幕府の要請に応えて、南方凶徒退治のために、あるいは天下静謐のために、法華経を転読して祈祷を行ったり、祈祷巻数を奉ったりしている、これによって妙顕寺は幕府の強力な保護を受けるようになった。
妙顕寺は更に皇室に対しても急速な接近をはかり、法華経を転読して「四海静謐之懇祈」などをこらした。
このため後光厳院は延文二年(一三五七)に綸旨を下されて、「都鄙に勧進して三千万部法華経の読誦を行うこと」を命じられた。
また延文三年には妙顕寺から捧げた三千万部法華経巻数に応えて「四海唱導」として「一乗之弘通」をいたすべき旨を仰せ下された。
この綸旨によって妙顕寺では山号を呼ばずに「四海唱導妙顕寺」と称するようになった。
延文三年の夏には深刻な旱颰が京都を襲った。
そこで大覚妙実は詔によって法華経を読誦し雨を祈ったところ、たちまちに効験があって降雨をみた。この功績により日蓮・日朗・日像に「菩薩号」を賜わり、大覚妙実自身は大僧正に任じられた。
妙顕寺は日像によって日蓮宗の京都における発展の根拠地として開創された寺であったが、大覚妙実の活躍によって名実共にその地位を確立したのである。
妙顕寺の京都におけるこのような繁栄に対して、比叡山はようやく圧迫を加える。
文和元年(一三五二)、比叡山衆徒は祇園感神院に命令を下して妙顕寺を破却しようとしたが、幕府の保護があったからであろうか。遂に事なきを得ている。
このように、大覚妙実は師の日像に次いで公武と深い関係を結び、日蓮宗の歴史の上に大きな功績を残した。
大覚妙実の足跡は中国地方に広くみられ、特に三備(備前・備中・備後)には開創寺院が多くみられる。
この地にはすでに日像の時から日蓮宗の信仰が及んでいたが、大覚妙実が元弘の末(一三三三)から康永(一三四二)にかけて伝道活動を展開したことにより、その教勢は格段に強固なものとなった。
この中で特に注目されるのは備前松田氏の入信である。
大覚妙実が備前津島(岡山市)で伝道活動をしていたところ、真言宗福輪寺良遊と問答して論破し、その寺を改宗させた。
これを聞いた富山城主松田元喬は、領内の真言宗の僧侶と大覚妙実を城内に呼んで問答を闘わせたところ、真言宗が負けてことごとく改宗した。そこで松田氏一族をあげて大覚に帰依し、福輪寺を蓮昌寺と改め、日蓮宗の伝道活動を援けた。
これが後に松田氏を最大の外護者とする「備前法華」が形成される契機となり、日蓮宗の全国的な発展の礎ともなったのである。
中国地方における大覚妙実の足跡は、このほかに備中(岡山県)の野山庄・穂田庄、更に備後(広島県)の鞆などに認められる。
これらの地方には「大覚大僧正」の伝説が数多く伝わっている。
《『日蓮辞典』「大覚」の項、『日本仏教人名辞典』「妙実」の項》