四海唱導
四海唱導
しかいしょうどう
足利の幕政以来戦禍と疫病に京洛は疲弊困敗し、幕府は多くの社寺に祈祷を頼み勅願所妙顕寺にも天下泰平の祈祷を再々懇請した。
特に後光厳天皇は延文二年(一三五七)八月二五日大覚に対し法華経三千万部読誦せよとの綸旨を下し、更に翌延文三年六月二五日うち続く大旱魃に雨乞の祈祷をするよう勅旨を出した。
大覚は衆徒三〇〇余名を引連れ桂川に至り今の実相寺付近に壇を設け読経。第三の巻薬草喩品「乾地普洽等雨法雨」の文に至るや感応あり、雲起雷鳴して慈雨数日に及んだという。
後ち旬日を経て「如説読誦三千万部法華経の巻数到来、目出候、為四海唱導可被致一乗之弘通旨、被仰下也、謹言 延文三年七月九日」との綸旨を賜う。
この「四海唱導」の語は法華経三千万部読誦を嘉すと共に祈雨の功績も共に評価賞せられたので、これ以後妙顕寺は「四海唱導妙顕寺」と称し具足山の山号はあまり用いない。
また同時に日蓮聖人に大菩薩号、日朗及び日像に菩薩号、大覚に大僧正を賜っている。
《『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮教団全史』上、『妙顕寺史』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『日蓮辞典』「四海唱導」の項》