不受不施派
不受不施派
ふじゅふせは
寛文五年-六年(一六六六)のころ幕府は不受不施義を主張する寺は寺請をとってはならぬことを命じた。
そこで信者、檀家の人々は表むきは普通の日蓮宗、いわゆる受不施の寺とか、あるいは禅宗、天台宗等の檀家となって寺請をとり内心に不受不施信仰を持ち続けた。
これを内信者・内信といい、寺請をとって戸籍を登録するとき判を押さねばならぬが、その判は表むきの仮に押す判であるから仮判ともいった。
信者のうちでも強信者は自ら帳薄を脱れて無宿、無籍となり自由に不受不施を信奉し、内心・外相共に清浄となって出寺僧に従い法義を説き内信を指導した。
これらを清者・清派・清法・法者・法立(ほうりゆう)といい、これに対し内信を濁者・濁派・濁法・不法立などといった。
僧にも清派と内信があり、清派を法中(ほつちゆう)、時には法立とも呼び法中の長老を法灯、法頭とよんだ。
さて法中への供養は法立、内信によってなされるが、内信はたしかに不受不施清浄の信者であるが、外相は他宗の仮判の檀家で謗法濁派の徒である。
他宗謗法の者よりの施物は受けられぬことは明白な制度であるから法中は内信者の供養は受けることができぬ。
そこで法立は両者の中間にたって内信者の供物を自身が受取り、これを自分の財物として法中に捧げるのである。
即ち法立は内信者の供養物を自分のものとし、自分が施主となって法中にささげる。
そこで法立を施主といい、施主の代りをするので施主代(せしゆだて)という。
法立は内信者五名ないし二〇名ばかりよりなる講を組織し、数個の講を把握していた。
このようにして〈法中←→法立←→内信〉と連繋する宗教史上まれに見る組織が自然に成立したのであるが、この非合法宗団を不受不施派という。
不受不施派は幕府の不受不施義禁止により地下に潜み教団を形成したときに名づけられるもので、それ以前における不受不施義、王侯除外の不受不施即ち受不施義の対立、並存の時にあっては不受不施義を奉ずる者はまだ不受不施派とはいわない。
禁止後の地下教団を不受不施派という。
《『日蓮辞典』『国史大辞典』一二巻「不受不施派」の項》
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