不受不施義
不受不施義
ふじゅふせぎ
不受とは文字通りに受けず、不施は施さずということ。
不受は概ね僧侶の立場で他宗の信者や未信者は謗法の人であるからこれらの人々からの供養・施物を受けない。
次に不施は概ね在家信者の立場で、他宗謗法の僧には布施供養をしないということで、これは不受不施の根本的態度で法華信仰を守るための理念であり、信条・法度である。
日蓮聖人の御書を検するに『守護国家論』『立正安国論』に他宗謗法者に対する留施・止施・不施を説かれているが、この不施の対象は法華宗教団の発展に伴って拡大されていることが知られる。
即ち聖人は天台宗の立場にたって初め禅宗、念仏宗を排撃されたが、本化地涌の上行、閻浮第一の聖人としての自覚を固めると共に律宗、東寺真言、更にすすんで雑行の天台円宗を破し、天台真言をも破折されるが、ここにおいて不施義は確立することとなる。
次に不受義について見れば、不施が未信、不信、謗法の人を対象とするならば、かかる謗法者よりの供養は受けられぬことは当然のことであろう。
不受不施派祖仏性院日奥は『宗義制法論』に「不施の禁の中におのずから不受の制あり」と示しているが、不受義は不施義の背後に同時に成立していることが知られる。
聖人滅後、日像が京都に開教し、三黜三赦の法厄ののち妙顕寺の寺地を賜い、元弘三年(一三三三)三月、後醍醐天皇の還幸を祈りその賞として同年五月一二日尾張、備中の国に三箇所の地を賜い、建武新政となるや建武元年(一三三四)四月勅願所となり、同三年には足利尊氏将軍の祈願所となっている。
また日像のあとをついだ大覚妙実は延文三年(一三五八)祈雨の功験により聖人に「大菩薩」、日朗・日像に「菩薩」号の宣下をうけ自身は大僧正に任ぜられている。
このように京都開教の当初、妙顕寺上古の様態を見ると朝廷より僧位・僧官を賜い、祈願所や寺領を受容することは不受不施の対象としては全然考えられていないことが知られる。
当時富士門流の三位日順は『摧邪立正抄』に日像が院宣、御教書を下され祈祷したことをあげて、いかに祈請をこらしても神天上、善神捨国の故に功験のあるはずはない、国土の災難倍増するは謗法の現証であると攻撃してはいるが官位、寺領等を受領したことについては難じていない。
元来富士門流の成立は日興の身延下山独立にあり、その下山は南部実長が謗施を行ったか否かの解釈が重要な理由になっていて謗施の受不受は特に重視されたものであるにもかかわらず、公武の施が論ぜられていないところを見ると、当時の教団一般では朝廷・幕府は特別のものとしてあつかっていたようである。
このころ妙竜日静は足利氏の外護を得て京都に本国寺をたて公武の勅願・祈願所となり妙顕寺と比肩する存在となっているがこれまた同様である。
妙顕寺は三世朗源、四世日霽のころになると権力、勢威になずんで折伏精神を忘れ摂受主義に流れるようになり、門下の日実・日成らはこれに憤激して同寺を去り同志と共に妙覚寺を創立、応永二〇年(一四一三)「妙覚寺法式」九条を制定し、社参と謗供を厳禁、強義折伏を鼓吹し宗門に新風をそそがんとした。
しかもこの妙覚寺にしてなおかつ公武の施に対してはこれを埒外においていた。
例えば法式第五条に「たといその夫が信者であってもその妻が入信せぬ時は三ヵ年の間はその師は間断なく誘引、教誡を加えよ、もし三年を経てなおも信順せぬならば夫妻共に破門すべきこと」を定めた。
しかるに間もなく本条項が新しく入信する公武の顕官に抵触し不都合を生ずることを知り、「三ヵ年誘引のことは高官大家の女中方においては軽々に断ずることはできぬから充分考慮することが必要」であるとして「衆議によって後日に筆を加」えたと追加念書した。
このように公武の施について特別に取扱う考え方を一般に「公武除外(王侯除外)の不受不施」という。
このころ妙顕寺より分立して本能寺を創し勝劣義を主張した日隆は「信心法度」一三条を制し厳格な不受不施法則を制したが、その第七条に「くぼう(公方)の事よりほか、何にても候へ仏事・祈祷に一紙はんせんいだすべからず」と公方を除外し、また駿河富士大石寺九世日有の制法『化儀抄』も公武を除外しているのを見れば、これが当時の常識であったことがわかる。
然るに一方では、たとえ公武たりとも、仏法の中においては同等であって特別の扱いをすべきでないとし、寺領についても寄進者の信不によって受不を厳重にせねばならぬと正統不受不施義を主張した久遠成院日親があった。
日親のこの厳正、強硬な主張は漸次同調者を得、諸山は寺領・祈願寺は専ら施主の信不によらねばならぬとし、除外制より脱却する大勢を醸成せしめたのである。
こうした動向の中で宗門の指導者たちは公武権力者が取り行う祈願会、供養会あるいは勧進についてあらかじめ不出仕ないし免除を請うて不受制禁の宗制を確立せんとはかり、不受不施公許の折紙を得た。
明応元年(一四九二)六月、将軍義稙代のものが『本国寺広布録』に収められているが、記録としては最も古いものである。
即ち室町中期には除外制を脱却して正当不受不施義、伝統的不受不施制を確立したと見られる。
足利氏滅亡ののち、文禄四年(一五九五)九月、豊臣秀吉は大仏千僧供養会を催し、日蓮宗にも法会に出仕せしめんとして招請したが、不受の宗制を堅持して不出仕をとく妙覚寺日奥らと、王侯除外の先例を立てて出仕を主張する本満寺日重を頭領とする長老たちとが対立したが大勢は出仕と決し、日奥らは出寺流浪して宗制を守った。
慶長三年(一五九八)秀吉没し、徳川家康が天下を制覇することとなるが、家康は日奥が国主の行う国家的大法会に対し出席を拒み、供養を拒否するのをとがめ、公命違背の罪に問うて対馬に遠流した。
慶長六年のことであるが、これによって本宗の不受不施義は再び王侯除外の立場をとることとなった。
日奥は対馬に流されたが慶長一七年正月赦免され、京に帰って妙覚寺に再住することとなった。
同二〇年(改元元和元)五月豊臣家滅亡と共に大仏供養も自然に沙汰止みとなったので、翌元和二年(一六一六)妙顕寺日紹、本満寺日深ら京都諸本山と日奥は不受不施義を確認し従来の葛藤を水に流して法理通用の約をむすんで和睦した。
こえて元和九年一〇月一三日、不受不施公許の折紙を得、同月二〇日京都十五本山は不受宗制を堅持することを申し合わせた。
この公許状によって本宗は再び王侯除外制をすてて伝統的正当不受不施制に立ち帰ったのである。
但し京都方面で除外制が大勢を占めていた慶長四―五年以降、徳川家勢力の本拠江戸にあっては家康の母伝通院殿が慶長七年九月に没して小石川寿量寺で葬儀を行ったとき、また秀忠の弟忠吉が同一二年三月に没して、芝増上寺の葬儀をしたとき、更に元和二年四月に没した家康の葬儀が仙波喜多院で行なわれたとき、身延・池上等関東法華宗諸寺が諷経したがいずれも供養を受けず不受不施が認められていたという事実を見ると、除外制は実質的には京都を中心とする地域的な動きであったともいえる。
従って不受不施の折紙の効果は京都近辺には影響を及ぼしたであろうが、本宗全般の動きは不受不施制下にあったから、むしろこれが確認に意義があったというべきであろう。
寛永七年(一六三〇)、関東において再び受不受の争いが再燃した。
その最も主要な点は寺領・寺子(地子)は供養であるか、国主仁恩であるかの問題で、身延(関西諸山の代表・頭領である)は寺領等は供養の施であるといい、池上・中山等関東諸山は寺領等は供養の施と、国主の恩分であり、政道の仁恩の施であって供養一途のものと解すべきでないと主張した。
そこで幕府は同年二月二一日両者を江戸城において対論させたが、その裁決に苦慮し、論義の内容・優劣についてはこれをおいて断ぜず、関東諸山が不受不施義を立てるのは先年の権現様の御宰きに背くものとして問答に出席した池上本門寺日樹らを諸国に配流し池上等関東諸山を身延の支配とした。
「身池対論」がこれで、しかもなお幕府は不受不施義を宥置して制縛することをしなかったのである。
これから約三〇年ののち寛文元年(一六六一)八月二七日、幕府は小湊誕生寺、碑文谷法華寺、平賀本土寺の各本末寺院が不受不施制を守るべきことを確認する布告を下しているから、このころまで幕府は不受不施公許の方針であったことが知られる。
しかも間もなく施行された御朱印地調査と御朱印再交付に関し、幕府は今度の御朱印地は徳川家より供養として下さるからその請書(手形)を出せと命じた。
即ち寺領には供養と仁恩の施との二つがあるという不受派の主張をしりぞけ、寺領供養と限定する身延・池上の義を取上げたのである。
平賀本土寺日述らは供養の寺領は宗義・宗制に反するから受け取ることはできぬと手形提出をこばんで流罪となったが、小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅らは「供養」とは三宝崇敬の仏法上の供施ばかりでない、供とは上より下に供給し、養とは上が下を養育する義であって世間法である。
敬田、恩田、悲田の三福田にあてれば悲田に相当するから「悲田供養」として受ける旨の手形をした。
よって幕府は平賀本土寺等供養を受けぬ不受不施義を禁止し、悲田供養として手形した小湊、碑文谷等を悲田不受不施派(悲田宗、悲田派ともいう)として認容した。
禁制された不受不施の諸師及び信徒は地下に潜んで不受不施派を形成組織したが、これを悲田派に対し恩田派という。
《『万代亀鏡録』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「不受不施」の項》
(宮崎英修)