宗義制法論
宗義制法論
しゅうぎせいほうろん
三巻。
妙覚寺日奥著。
元和二年(一六一六)三月二六日、本書を著し、『破奥記』を破している。
『破奥記』は日奥の教説を破した身延日乾の著で、日奥の『破奥記』批判書が本書である。
本書は『守護正義論』・『御縁起』と共に日奥の代表的著作である。
即ち本書の上巻には『破奥記』の全般について論じ、中巻には個々の問題を、下巻には『法華宗諸門流禁断謗施条目』についての会通と新しい論難に対して反論を試みている。
いま『破奥記』の論点に従って本書の反論を見てみよう。
(1)『破奥記』の微信たりといえどもこれをいだけば、その施は謗施ではない、とする考えに対し、本書は、まず謗施不受は宗旨法度たるを論じ、大仏供養における施主秀吉には信仰の微志はなかったと断ずる。
船守夫妻の奉事をもって供養と思うのは、世・出の分別を知らぬものである、と反論する。
(2)謗者の供養も善巧方便のために受ける、という点について『破奥記』は仏陀の例を引いて証誠せんとしたが、日奥はこの所論甚だ相応せぬ例論であるという。
何となれば、仏陀は三惑已断の大聖である。
日乾は一毫未断の凡夫である。
仏陀化導の例に未断の凡夫日乾の謗法行為を比すことができようか、と破している。
(3)高祖に不受を制する文なし、と『破奥記』は論ずるが、高祖が不受を制せられた明文は明白にある、と反論する。
(4)祖文を会通する。
日奥は責める。
『日向記』に載す不染の染を日乾はひとえに利養に対する語と考えているが『向記』のどこに利養と定めてあるか。
染とは染汚の意味である。
たとえ心は染着せずとも、已に汚染至極の謗施を受ければ汚れたものである、と日奥はいう。
(5)先師の義を会通。
「適時而已、取捨得宜不可一向」の文をもって時世に即応して対処し、宗命相続の法とする日乾の説を、日奥は高祖のこの釈を引証された意趣と、日乾らの意とは天地水火の異なりがある、と責め臆病不覚・謬乱の義であると破している。
(6)国土の恩は国王の施である。
謗法の国王の施を受けないというならば、普天の下、王土に非ずということなく、山海万物、国王の有に非ざるものはない。
仏説のごとくならば、この大地遊行し、井水を飲用することは皆これ国王の布施であり、広大な供養ではないかという難に対し、日奥は与同罪を免るゆえに、国土に住し土毛を喰むに障礙なし。
三界の主は釈迦一仏のゆえに、妙法の弘通者は衣食の障りなし。
この世界の衣正は釈尊の具徳顕現のゆえに、衣食に障りなし、と反論する。
(7)身延山不参を説くは大謗法・堕獄。
身延に参詣するは堕獄等と説くは、この霊地が謗供を受けた日乾によって汚されているからで、よって山に登詣する人はその不浄によって汚されるから抑止するのである、と論難している。
『万代亀鏡録』所載。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、辻善之助『日本仏教史』近世編之三》