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悲田供養

ひでんくよう #2194

悲田供養

ひでんくよう

三田思想の一。
寛文五年(一六六五)の「寺領の朱印状改」、翌六年の「土水供養令」による手形の提出が平賀ないし野呂に求められた時、小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禅・谷中感応寺日純らは、不受不施義をたてながら何とかして御朱を受けようとし、手形の文言の改変を試みたのである。
幕府は「供養」という二字があれば、その他はいかような文言を加えてもよいという内意のあることを教えたので、慈悲による供養として受けるという手形を出そうと考え、平賀日述・野呂日ら正統派の不受論者と相談し接衝した。
しかし日述らは宗義宗制に反するゆえをもつて、あくまで賛意を表さなかつたから、日明らは同志の諸寺(房州鏡忍寺・越後村田妙法寺・谷中感応寺・相州依智妙純寺・碑文谷法華寺・小湊誕生寺)を募って、慈悲供養にょるものとして、寛文五年一一月二三日朱を受けとることに決したのである。
ち「今般、御朱頂載仕段、難有御慈悲二御座候、地子地領悉く御供養と奉存候、仍如件」という文言である。
日明らは幕府側の示した文辞のごとく、供養の二字を入れ悲田供養として受けたのであるが、元来物を施すのに三田思想という福田思想がある。
一に恩田、二に悲田、三に敬田である。
寺領は世間の仁恩であり、また悲田の義に通ずる。
ゆえにすでに長遠日遵もその著『不受決』に我祖が船守弥三郎の施を受けられたるは、『優婆塞戒経』の「世界の福田に凡そ三種あり、一には報恩田、二には功徳田、三には貧窮田(略)弥三郎夫妻等吾師の恩を蒙るにあらず故に報恩田にあらず、初めには功徳の人なるも知らず、故に功徳田にあらず、只これ左遷の憂悩を哀む、豈貧窮田の施にあらずや」と悲田の施を受けられたことを明記している。
また供養についていえば、元来三田は世出にわたる言葉で「輔行四に云く、下をもって上に薦むを供と為。
卑を以て尊を資くるを養という云云。
是は敬田供養の釈なり。
経に云一切の沙門婆羅門及び諸の外道貧窮・下賤・孤独・乞人を供養する云云。
疏の注云、供養の二字、供は平声なるべし、養は上声なるべし。
供給、養育差ならしむるをいうなり。
若し輔行の中に下をもって上に薦むるを供といひ、卑を以て尊を資くるを養という。
並びに去声となすといふことは、恩敬二田に約して之をいう。
悲田にあっては応に平上二声に作るべきなり」とある。
これらより見れば、供養の二字は三田に通ずることの証文明白である。
悲田ないし慈悲の二字いずれかを是非入れたいゆえんは、以上のような由からである。
日明らはかくて供養とは追善供養や、三宝供養にかぎったものではない。
つまり供養とは供給し養育するの意であって、これを三宝供養にのみ限定することは経釈に違す、よって慈悲供養・悲田供養と共に世出に通ずる、と主張したのである。
これに対し日述・日らは、供養の二字が恩田悲田にわたることは今更こと新しくいうに及ばぬ。
ただ古来より供養という語は敬田に用いる。
ゆえに自他宗を問わずみな布施供養の字は、仏事の義に用いる習わしになっている。
しかも今般は寺領、地子らを三宝供養のためと仰せ出された以上、謗施の財体は不動である。
財体すでに転ぜざるがゆえにを犯している。
また寛永七年(一六三〇)の身池対論の時、判者たる天台の明匠や儒林の頭領たる道春・永喜が、供養の言が字の平仄に変化することを知らずして、無益の論をさせようか。
悲田の下に供養をつけて、悲田供養と名づけようとも、公儀すでに三宝崇敬の義といわれるからには、能施所施全く相違して、水を火と思いなすものであり、毒であるものを毒ではないどいって、受けとるようなものである、と破しているのである。
従って日述らは、日明らに「悲田受不施」と名づけず「新受不施」・「新受」と呼び、従来の受不施義を「古受」と称して簡び蔑称したのである。
ともあれ日明らは、幕府の指示によって慈悲供養悲田供養の手形を出したから「書物をした不受不施派」・「悲田不受不施派」といわれたのである。
《宮崎英修「悲田不受不施派の興亡」『日蓮学の諸問題』》

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