三田思想
三田思想
さんでんしそう
三田とは三種の福田をいう。
即ち衆生が福徳の因種を植える三種の田。
福田とは田地はよく植物等を育成し、それによって物を産出するごとくに、仏・法・僧の三宝を始め、父母・師長・貧苦者等へ施せば福を生ずることから福田という。
その三種には敬田・恩田・悲田がある。
敬田とは仏・法・僧の三宝を恭敬供養することによって無量の福分を生ずることからこれを敬田という。
恩田とは報恩福田、報恩田とも称し、父母、師匠らをいう。
即ち養育や教誨の恩がある父母・師匠らに仕えてその恩を報ずれば福を得ることから、この名称がある。
悲田とはあわれみを受けるべき人、苦難を受けている貧窮困難の人をいい、それらの貧苦者に対し慈悲哀愍の心をもって施せば自から福を生ずることから悲田という。
これらの三福田に、身口意の三方法によって諸物を供えたり寄進する布施を、それぞれ敬田供養・恩田供養・悲田供養というのである。
また『優婆塞戒経』供養三宝品には三種の福田を次のように示している。
「善男子よ、世間の福田に凡そ三種有り。
一に報恩田。
二に功徳田。
三に貧窮田。
報恩田とはいわゆる父母師長和上なり。
功徳田とは煖法を得たるより乃至阿耨多羅三藐三菩提を得たるなり。
貧窮田とは、一切窮苦田厄之人なり」(『正蔵』二四巻)と記されている。
つまり報恩福田とは父母等をいい、功徳福田とは三宝等、貧窮福田とは貧苦者をいうのである。
このような三田思想が、日蓮聖人滅後の教団で重要視されてくるのは、近世における不受不施の論争を契機とする。
即ち不受不施制が確立してくると、謗法者からの供養をどのようにすべきかが問題となるであろうし、また世間的な交際の中でそれらの制度をどのように維持すべきかが問われてくる。
これが室町時代に至っては、王侯除外の不受不施制の成立を見るのであり、更に近世に至って中央集権の政治体制が確立するに及び、信仰の純粋性を保持しようとする一派と政治の権力者と衝突を見るのである。
そして徳川幕府の成立と共に、日蓮教団内に従来の折伏の方軌を守り信仰の純粋性を貫徹しようとする不受義と、教団の存続を根本理念とする受義との論争に及び、その代表的なものが身池対論である。
さて受・不受論争の中で、三田思想をもって解釈を試みる例は、日蓮聖人が謗法の施を受けられたか否かということであった。
『船守弥三郎許御書』(定二二九頁)には、弥三郎が、日蓮聖人をかくまい庇護して飲食を供養したことを、聖人は父母が生れ代って弥三郎夫妻となり、自分を援けてくれているのではないかとさえ喜ばれている。
そして一ヵ月余りの間に、夫妻が「内心に法華経を信じ」「日蓮を供養」するに至ったことが記されている。
この未信謗法の者である弥三郎の施を聖人が受けられたことを、受・不受の争いの中で不受義を主張する側では、施には恩田・悲田・敬田の三田があって、弥三郎が聖人を援けたのは、恩田、即ち仁恩の施であり、敬田の施ではない。
それ故に弥三郎が聖人の教えにより「内々に法華経を信」ずるに至って、その「供養」(敬田)を受けたといわれているのであると主張している。
これに対し、受義を立てる方では、聖人は未信謗法の施を受けられたことはこの一文に明白であると反論する。
けれども聖人がこうした三田思想によって供養・布施を判断し、初めには仁恩の施として受け、後には「内信」の施によって受けるに至ったとは考えられないところで、これは受不受制の未制、発展成立過程における一形態である。
しかしながら、不受義のこの解釈によって三田思想の一端を伺うことができる。
弥三郎の施を三田に配して理解するのは不受論者の通格であるが、長遠院日遵の「不受決」の文には次のような記述が見られる。
「弥三郎夫妻、左遷の危難を見て悲哀に堪えず飲食に及ぶ、豈論ずる所の作善供養ならんや、蓋し、是世間の愍念の飯食のみと。
吾宗供養を設くることを禁ずと雖も、然れども飲食医薬等を以て貧者、病人、配流、困厄の輩に施すを許す、憐愍の一施、主敵共許なり。
(略)故に優婆塞戒経云く。
仏の云く、世間の福田に凡そ三種あり、一に報恩田、二に功徳田、三に貧窮田なり。
(略)弥三郎夫妻等、吾師の恩を蒙るに非ず、故に報恩田に非ず、初には功徳の人なることを知らず、故に功徳田に非ず、只是れ左迂の憂悩を哀む、豈窮田の施に非ずや」(『万代亀鏡録』)と『優婆塞戒経』の三田説を引用して弥三郎の供養を解釈し、貧窮田の施ではないかと結論づけているのである。
《『遺文辞典』歴史篇「福田(ふくでん)」・教学篇「悲田」の項、『岩波仏教辞典』「福田」の項》