船守弥三郎
船守弥三郎
ふなもりやさぶろう
(生没年未詳)
弥三郎と日蓮聖人との最初の出会いは弘長元年(一二六一)五月一二日。
伝説によれば日蓮聖人は役人の手によって伊東の篠海浦の俎岩の上に置きざりにされ、それを漁夫の弥三郎が助けたためとされている。
『日蓮とその弟子』には『元祖化導記』等を引用して「伊豆伊東庄は七郷ある。
その七郷の中の留津浦に着いたと伝えている。
この留津浦が今の富戸町の篠海浦を指すのか、川奈津をいうのか、あるいは川奈に住した弥三郎が篠海浦から自分の所につれて来たのか、ないしは留津浦というのは川奈という地の中にあるのか、俎岩の地についても海岸線の変化のあったこともいわれ明らかでない」としているが、一般に川奈の船守弥三郎とされている。
弥三郎は『高祖年譜』や『本化聖典大辞林』には上原弥三郎、また『本化別頭仏祖統紀』には「船守弥三郎は上原氏豆州河名津の小吏なり」とある。
弥三郎は常に上原姓を名乗ったようでなく『高祖年譜』に「弥三郎、本姓は上原なり、大士が謫居の日、夫妻は志を竭くし供給する。
大士毎に呼んで船守となす、遂にもって姓となす。
子孫今もなお存せり」とあるように上原姓そのものにはあまり意味を持たない。
聖人を助けて巌窟に庇護し、三〇余日にわたり夫妻で供養を捧げた。
これが五月の食糧端境期であり、十分な食糧事情でないときであるため、この行為に対して弘長元年六月二七日に『船守弥三郎許御書』を出して「日蓮が父母の、伊豆の伊東かわな(川奈)と云うところに生れかわり給うか」(定二二九頁)と述べており、その法勲を喜んで船守の姓を与えた。
弥三郎は聖人への信頼と強い法華経信仰よりその船守姓を喜んで受け、以後船守弥三郎と呼ぶようになった。
またこの時、念仏者である領主の伊東八郎左衛門は重病のところ聖人の祈祷で平癒したので、そのお礼として海中出現の立像仏を献上したので、聖人はこれを随身仏として一生大事にした。
弥三郎の遺徳を偲んで蓮着寺や蓮慶寺が建立され、また立像仏出現に因んで仏現寺が建立されて現在に至っている。
《宮崎英修『日蓮とその弟子』、『遺文辞典』歴史篇「船守弥三郎」の項、『日蓮辞典』『昭和新修』別巻「船守弥三郎」の項》