伊東八郎左衛門
伊東八郎左衛門
いとうはちろうざえもん
(一)もと伊東の地頭で、後に信濃守となった伊東祐光(すけみつ)のこと。
『弁殿御消息』によると、この人は日蓮聖人の祈祷により蘇生の利益を蒙り、一度聖人の門下に帰依したが、のち退転し却って念仏・真言の信者となり、建治の頃死んだという。
(二)日蓮聖人が伊豆伊東に流された時に、その地を領していた地頭で、伊藤朝高のこと。
『船守弥三郎許御書』によると、聖人伊豆流罪中、たまたま病に臥し危篤であった八郎左衛門は、聖人の病気平癒の祈祷により本復できたので、その謝礼としてかつて海中より発見した立像の釈尊を聖人に捧げ、深く聖人に帰依したという。
聖人は生涯この釈尊像を随身仏として奉持した。
ところで『船守弥三郎許御書』に出る地頭と『弁殿御消息』に登場する伊東八郎左衛門とを同一人物とする説もある。
宗門の史書『註画讃』『当家宗旨名目』等は両人を同一と見ている。
しかし『本化高祖年譜攷異(ねんぷこうい)』は「朝高は、八郎左衛門と称す(略)日昭に賜ふ書(『弁殿御消息』のこと)に、八郎左衛門改宗の事あり。
此は朝高と別人なる者か非るか」と述べ、両者の別人なることをほのめかす。
伊東氏はもと工藤氏であったので、その系譜を見るに、『日向記(ひゆうがき)』では「伊東の八郎ざゑもん、今はしなののかみ」(『弁殿御消息』定一一九〇頁)なる者は、大和守祐時の六男祐光であるとし、朝高とは諱していない。
また『工藤二階堂系図』『伊東系図』『河津(かわず)系図』『相良系図』等は、その系譜に多少の異なりがありながらも、八郎左衛門尉信濃守が祐光であることには少差もない。
また『吾妻鏡』の建長・康元年間の随所に「伊藤八郎左衛門尉」とあるのも悉く祐光である。
ところが同書の康元元年(一二五六)正月の御的始(おんまとはじめ)の射手の中に「工藤八郎四郎朝高」なる者がおり、「工藤八郎」とも称している。
また文応元年(一二六〇)の射手の中にも出る。
あるいはこの人が宗門の伝記にいう伊東朝高ではなかろうか。
遠江の伊東徳義(朝高一九代の裔孫)に贈られた『系譜』によれば、朝高は祐光の孫に当る。
通称の八郎が任官して左衛門尉となれば「八郎左衛門尉」となり、もし祐光から伊東の地頭職を譲られれば「伊藤八郎左衛門尉朝高」となる。
また地頭職でなくても伊東に住めばそのように称することもできよう。
以上の如く解せば『弁殿御消息』の「伊藤八郎左衛門」は「祐光」にして退転堕獄の人、宗門所伝の不退転の「八郎左衛門」は「朝高」にして遠江浦鹿へ退隠した人となるであろう。
《宮崎英修『日蓮とその弟子』、高木豊『日蓮とその門弟』、『遺文辞典』歴史篇「伊東八郎左衛門」の項、『昭和新修』別巻「伊東八郎左衛門」の項、『日蓮聖人大事典』「日蓮聖人と退転者」の項》