不受不施制
不受不施制
ふじゅふせせい
不受不施義をもととしてたてた制度、行儀のことで、また不受不施義を自身の生活の信条として守る制度をいう。
不受不施制は大きく分けて社参禁止と謗法供養禁止とする。
社参禁止は、日本の神祇は天照・八幡を始め大小の神々すべては久遠本仏の垂迹であるから基本的には参詣することは差支えないが、これらの諸社は殆ど天台・真言等諸宗の社僧によって祭祀されている。
而していま末法に入って白法隠没の時代にあっては諸宗の教えは無得道・無益にして、ただ法華経の南無妙法蓮華経の教えのみが一切衆生を済度する唯一の正法として残されているのであるが、諸神はいまなお天台・真言等の教法によって祀られているから正法の法味を嘗めず威力を失い、それぞれの本土に還帰して社殿は祭神不在、いわゆる「神天上」している。
『立正安国論』には「世みな正に背き人ことごとく悪に帰す。
故に善神は国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず」といわれ、また「盲瞽のともがら迷惑の人、妄りに邪説を信じて正教を弁えず、故に天下世上、諸仏衆経において捨離の心を生じて擁護の志なし、仍て善人・聖人国をすて所を去る」と慨嘆されている「善神捨国」がそれである。
従って社参は無益であり、次に社参して供物を捧げることは謗法の社僧に供養することであるから謗施となる。
このように信仰の純粋をみだし謗施供養を行うことになるから社参を禁ずるのである。
但し社僧のいない村の鎮守の参詣は聖人が黙認されたことは『三沢抄』(定一四四八頁)によって明らかであるから社参禁止の対象とすべきでない。
但し不受不施派諸師、また法立の中には江戸末期のころになると鎮守、氏神の参詣も社参禁止を指導するようになる。
次に謗法供養の不受不施は論ずるまでもないことであるが、この不受不施制に受不施と不受不施を分ける。
一般に理解されているところでは、他宗の人の供養は受けるが、他宗の僧には供養をせぬのを受不施というように考えられているが、これは受不施義の発展した形態で、元来の受不施の「受」とは国主の供養だけは受けるという「王侯除外制」のことであって一般の人々よりの謗施はあくまでも不受の制法をまもった。
これは当時「受不施」と貶刺された身延の智見日暹(一五八六-一六四八)が身池対論直後に門末諸寺にあてた回文に「国主の供養は受けるが平人の施は古来より制戒されているところ、この義においては両隠居(日乾・日遠)も同意である」と念告しているところによって明白である。
これが寛文五―六年(一六六五-六六)の総滅後になると、身延日奠は『受不受法理之事』の中で他宗の施を受けることは敵の武器兵粮をとって自分の用にたてることであるから受けてよく、他宗の者に供養するのは敵に武器兵粮を与えて力を増さしめることとなるから不施を厳守せねばならぬ、他宗の施は受けてよし、他宗に施を与えてはならぬ、という撤底した「受」の考え方となり徳川中期の「受不施制」を確立させるのである。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『日蓮宗の守護神』》