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身池対論

しんちたいろん #4905

身池対論

しんちたいろん

寛永七年(一六三〇)二月一二日、法華経未信者である国主の供養をめぐって、受不施を主張する身延久遠寺と不受不施を主張する池上本門寺との対論で、幕府が身延・池上両者を召喚し江戸城で対決させた論争をいう。 身池対論また延池諍論ともいう。
不受とは日蓮宗以外の他宗、不信・未信者、謗法者よりの布施供養を受けないこと、不施とは日蓮宗以外の僧に供養しないことであり、これは宗祖日蓮聖人以来の日蓮教団全般にわたる伝統的な通規であった。 しかし強力な近世政権が確立し、その主が日蓮宗不信・未信者である場合、これを対象とした不受不施制は大きく二つに分れた。 ち文禄四年(一五九五)九月、豊臣秀吉は東山方広寺大を建立し、日蓮宗にも千僧供養会出仕を命じた。 その出仕をめぐり、京都本満寺日重らの出仕派(受不施派)と京都妙覚寺日奥らの不出仕派(不受不施派)に分れ対立する。 以降、日蓮団を二分した受・不受両派の身池対論に至る対立抗争の展開の経緯は次の通りである。
秀吉没後、次第に権力を掌握した徳川康は、慶長四年(一五九九)一一月二〇日、公命を無視してなお出仕しない日奥と、出仕派の京都妙顕寺日紹らを大坂城内にて対論させ、あくまで謗施不受を主張する日奥を権威にはむかう逆罪人として翌五年六月、対馬に配流する。 慶長一七年五月、日奥は赦免されて京都に帰り、元和九年(一六二三)一〇月、幕府は不受不施公許状日蓮宗に与えた。 これによって再び伝統不受不施制が認められたのである。 しかし、日重の弟子日乾・日遠と日奥の受・不受論は再燃し、しかもこの問題は京都系の主張を代表する身延久遠寺日暹と日奥の主張の代弁者である池上本門寺日樹とのに引継がれ、論争の舞台は江戸に移された。 両派互いに受・不受を論難し幕府に訴えたので、幕府は両者を召喚し対論させた。 身池対論である。
身延側の出席者は身延久遠寺前住日乾・同日遠・当住日暹・藻原妙光寺日東・玉沢妙法華寺日遵・貞松蓮永寺日長、池上側は池上本門寺日樹・中山法華経寺隠居日賢・平賀本土寺日弘・小西檀林能化日領・碑文谷法華寺日進・中村檀林能化日充の六名で、対論の焦点は国主の供養に対する受・不受の問題と、寺領を供養とするか仁恩とするかにあった。 身延側は日蓮聖人在世の不受不施形成途上から、あるいは制し、あるいは猶予されている点を重視し、池上側は日蓮聖人以来不受不施義確定の制戒の立場から主張したが、三〇〇余年来の宗制と考えられている不受不施を、国主なるが故に除外するという王侯除外の不受を主張する身延側の立場は不利であった。 三月二一日、池上日樹は幕府に身延側の敗論は明白であるとして、その裁決を願う訴状を捧げた。 しかし四月二日幕府は対論を裁決し、法論からではなく、先年康が不受不施を禁止した御裁きに違背したという由で、池上側を敗者とする政治的な結論を下した。 かくて幕府は不受不施派にきびしい処罰をもってのぞみ、池上日樹は信州伊那に、日賢は遠州横須賀、日弘は伊豆戸田、日領は佐渡のち奥州中村、日充は奥州岩城平、日進は信州上田に流となった。 また、不受派の指導者として大きな影響を与えた日奥は、裁決の直前三月一〇日、六六歳で京都妙覚寺に没したが、死後にもかかわらず再度の対馬となった。 更に幕府は不受派の拠点である池上本門寺を日遠に、京都妙覚寺を日乾に与えた。 身延はこれを好機として飯高・中村・小西の三檀林を接収、能化の任命権と檀林の経営権を掌握すると共に、中山法華経寺・小湊誕生寺の不受派拠点寺院をもその支配下におさめた。
なお身延と池上の対論を記録した身池対論記録には、池上側の記録と『東武実録』所収の二本がある。 しかし、『東武実録』所収本は対論後三六年目の寛文六年(一六六六)よりもないころ、身延側で作成したものを『東武実録』編著に際し、無批判に収録したもので、身池対論の真相を知る基本史料とはならないものである。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同『禁制不受不施派の研究』、同『日蓮宗の人びと』、『日蓮辞典』「身池対論」の項

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