千僧供養会
千僧供養会
せんそうくようえ
豊臣秀吉は京都東山に大仏殿建立を発願し、文禄四年(一五九五)五月落成、方広寺と号した。
しかも秀吉は同年九月より毎月、先祖並びに亡父母追善のため、大仏殿に真言・天台・律・禅・日蓮・浄土・遊行・一向の八宗より各一〇〇名の僧を招き千僧供養会を修する旨諸宗に通達した。
当宗宛招請状は九月一〇日に寺社奉行前田玄以の名で到来した。
供養会出仕は他宗にとってはともかくも、日蓮宗にとって法華経未信者秀吉の招請に応ずることは宗門古来の不受不施義に反することであり、その出否をめぐって宗内は騒然となった。というのも先例としては、将軍足利義教が永享一二年(一四四〇)に義満の三十三回忌に催した千僧供養会に出仕御免が許可され、一部を除いて京都諸寺は出仕を免がれた例があり、秀吉の出仕招請に先立つ天正一七年(一五八九)に、同じく玄以の名で不受不施公許状を得ているのである。
しかるにこの招請状(出仕命令)が来たとすれば先年の公許状が破棄されたと見なければならず、この招請に応じなければ国主の命に背いたかどで一宗破滅の悲運に陥るは必定、ゆえに出仕すべきであるとする日重らの長老派(受派)と、あくまで不受を貫こうとする日奥に代表される一派(不受派)とに京都諸寺は二分されることとなった。
これを教学史的に観れば、受派は宗門護持のため政治権力との妥協もやむなしとして摂受開会の立場から天台学を重んじる関西学派で、日重・日乾・日遠三師に系譜し、不受派は宗義の純潔性を守る祖書第一折伏主義の旧関東派たる妙覚寺門流であった。
即ち日奥(一五六五-一六三〇)は妙覚寺法度で三大部を講ずることを禁じ、今昔二円の体を峻別して爾前無得道、法華独一成仏を唱えた。九月二二、二三日の本国寺における談合の結果、妙覚寺日奥、本国寺日禛が不出仕となり、一一月日奥は妙覚寺を退き公儀違背の人となった。
日奥が鶏冠井(かいで)に留まる二〇日間、浄土宗側は日蓮宗の内紛に乗じて千僧供養会の席次替えを上申し、この訴訟が通り、初めの第五日蓮第六浄土を逆転された。これを聞いた日奥は、秀吉に対し七ヵ条にわたって悲憤の情を訴えたが採るところとならず、これに先立ち出仕予定の前日九月二四日、日蓮聖人の法度たりとも公儀の命令は格別とする出仕督促状が玄以の名で届いていたのである。
千僧供養会出仕を機に日奥と諸寺は不和内紛の状態に陥り慶長三年(一五九八)八月秀吉薨じ、翌慶長四年一一月に京都諸寺は時の実権者・内大臣徳川家康に日奥・日禛を君命に背く者として訴え、ために家康は大坂城に両者を召喚して対論させ、日奥らには権力をもって供養会に出仕させようとした。世にいう大坂対論である。
この時家康は、供養会出仕の譲歩案として同座禁を認め別座諷経を許したが、日奥はこれも拒否した挙句に家康の逆鱗に触れ、慶長五年五月対馬流罪の身となった。
この時既に日禛は出仕に同意したが、供養の膳の箸をとるだけでも相似の謗法とする日奥の強い形式尊重の態度が伺われる。
日奥の敗論によって、摂受開会の関西学派が折伏主義の関東学派に替って日蓮宗の主流となり、王候除外の不受不施制が定められいわゆる慶長の規約とされた。
日奥配流の間、什門日経の慶長法難を経、赦免運動の甲斐あってか、慶長一七年板倉伊賀守の名で赦免状が届き、一三年ぶりに帰国することとなった。
日奥の妙覚寺還住は元和二年(一六一六)で、その間、慶長八年博多妙典寺において切支丹論破の功をたて勝立寺開山となった唯心院日忠による、妙顕寺日紹に代表される京都諸寺と日奥との和融斡旋があずかって力あった。
日奥の願い叶って元和九年一〇月不受不施公許状が出され、制度として一往の確立をみた。
文禄四年より慶長一九年に至る二〇年に及ぶ千僧供養会は自然に廃止され、ようやく宗内は和融に向ったが、受不受の対立は底流となって残り、日奥示寂の寛永七年(一六三〇)身池対論、更に寛文初年の御朱印手形問題の結果、日奥門下が禁制宗門として徳川三〇〇年間地下に潜むまでの、束の間の安らぎであった。
《宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、同「切支丹を論伏した日忠上人」『続・日蓮宗の人びと』、『岩波仏教辞典』「千僧供養」の項》