大坂対論
大坂対論
おおさかたいろん
慶長四年(一五九九)一一月二〇日、徳川家康は妙顕寺日紹・堺妙国寺日統と、妙覚寺前住日奥・本国寺前住日禛を大坂城に召喚し、大仏供養受不の問答を行わせた。
これを大坂対論という。
当時宗内には、文禄四年(一五九五)に豊臣秀吉の営んだ大仏殿千僧供養会の出仕をめぐっての対立のしこりがあった。
即ち妙覚寺日奥らは、秀吉は法華の信者ではなく謗法者であるから、出仕して供養をうけることはできないと不受不施の立場を主張(不受派)し、本満寺日重らの国主供養は例外であるとする受不施の立場からの主張(受派)と対立したのである。
そして宗門の大勢が受派の主張を受け入れ出仕することになると、日奥はこれを不満として妙覚寺を退出し丹波国(京都)小泉に隠れ、本国寺日禛も翌文禄五年、本国寺を日桓に譲り嵯峨の常寂光寺に隠棲し、日奥と共に大仏供養会出仕者である受派を批判する行動に出た。
更に日奥は、この時期大地震を始め天変地異が盛んに起ったことを、日蓮聖人の『立正安国論』にならい、その災難の根源を法華経に照らして考え、『法華宗諫状』一巻を著し、『立正安国論』の写本と共に天皇のもとに呈出してもいる。
一方、受派側では大仏出仕の僧を最初のころは京都諸寺にふりあてていたが、出仕の割当をうけた諸本山は間もなく、それを田舎や遠国の末寺にまで拡大するようになり、中には出仕を拒み、本寺に背く末寺も出てくるようになった。
これに対し日奥らの行動は、法華宗の僧俗の間に多くの共鳴者を生むようになり、彼らに従うものもしだいに多くなっていった。
しかし受派側の僧侶たちからみれば、日奥らのこうした行動は、自らの末寺や信者を奪い、教団勢力の衰退を招くと映ったことであろう。
そこで彼らは訴状を内大臣徳川家康に呈し、日奥・日禛らの行動を止どめ、大仏供養会に出仕せしめられるようにと上申したのである。
日奥は陳状を捧げ、その所論を一々論駁したのであるが、ここにおいて家康は両者を大坂城に出頭させ対論することを命じた。
ときに慶長四年一一月二〇日のことである。
この対論の様子は、日奥の「御難記」、日乾自筆の転写本「於内府様御前対決記録」によって知ることができる。
それによると、対論は酉刻(夕方六時ごろ)から始まり亥刻(一〇時ごろ)に終った。
日奥・日禛はすでに昼間のうちに登城しており、待ちうけた奉行衆らに、対論以前に手をかえ品をかえ供養に出仕するように説得されたという。
更に奉行衆は家康の意向として「このたび、ただ一度の出仕は公儀に対して一往の仕付であるから宗旨の疵にはならない。
しかし後日の批判を慮るならば、宗旨の瑕瑾とならぬように国主の証明書を出そう。
文言の好みはそちらの心にまかせる。
また諸寺の僧と同座を嫌うならば別につとめてよい。
なおまた一飯をうけることが迷惑ならば膳に向って、ただ箸をとるだけでもよいのだ」と伝え、最大の譲歩を示し、もしこれでも同意しないならば「天下御政道の手初め、万人見せしめの為に厳重の御成敗あるべし、其身の事はいうに及ばず、親類檀那等に至るまで悉く厳科に行わる可し」と威嚇もした。
日禛はこの家康の示した条件を容れて出仕することを約したが、日奥は「いかに国主の御証文を賜わろうとも一度出仕をとげれば宗旨の立義に違背することになる。
所詮自分の身命の果てる時がきたのであって、弟子檀那が連座の罪にあうのは時の不運である。
浮世の中にも謀叛、殺害などに関連して科なき眷属が相果てる例その数は少なくない。
況やこのたび仏法の故のことであるからおのずから後世得道の大縁となるものであって歎くべきことではない。
何と申されても出仕の儀は一すじに思い切り申す。
重ねての御掟は何卒御免をこうむりたい」と言い放ち、かたく決意をひるがえそうとはしなかった。
ここに日奥の不受不施義に対する強い格式尊重・形式主義の態度を認めることができよう。
さて、対論の場において日奥は日紹らと対峙することとなるが、ここにおいて家康は他宗の供養を受けざる法理があるならばこの座において申せと責め、日奥より先輩の諸師が大仏出仕も許されるというのに対し、若輩の身である日奥ただ一人が出仕を嫌っていることは法華宗の魔王たることを示すものであると断定した。
そして日奥の反駁に対しては「加様に強義をいうものは天下の大事を起すべし、ただ流罪に行うべし」と言い渡し、日奥の袈裟・衣を剥ぎとり、対馬への流罪を決した。
日奥は対論の正式な手続きを主張し、古法に従って判者・記録者を設け、双方の申分は経論釈疏を正しく紙面に載せて勝負を決すべきものであると申立てたが、これは簡単に退けられたのである。
こうして日奥が流されると、摂受・寛容の約教開会主義に立つ天台学中心の広学態度をとる関西学派が、折伏・厳粛、約部独一成仏を主張する祖書中心の教学を奉ずる関東学派を抑えて法華宗の主流となり、形式としては初期不受不施形態である王侯除外制が宗門の潮流として改めて登場してくるようになった。