中村檀林
中村檀林
なかむらだんりん
千葉県香取香取市に所在した。
飯高・小西檀林と共に関東三大檀林の一つとして学徒を育成し、多くの人材を輩出した。
檀林が設置された日本寺の山号を正東山と称するところから、正東檀林・正東庠、また中村談所ともよんだ。
慶長四年(一五九九)恵雲院日円が日本寺に学室を構え開講したのに始まる。
飯高檀林にあった日円は、同檀林第二世法雲院日道の後職として、京都の一如院日重を推挙し、自らは飯高檀林を退いて中村浄妙寺に蟄居した。
しかし日円を敬慕する多くの学徒は開講を要請、ために日円は中村浄妙寺、ついで日本寺に開講して中村檀林の基礎を開いた。
一方、一如院日重の代りに飯高第三世化主として入檀した心性院日遠は、慶長八年身延晋住のため、後職の飯高第四世化主として中村の日円を迎えた。ために日円の中村檀林での講義はわずか三年であった。
日円ののち唯心院日因、正教院日慈、顕是院日要が第二-四世化主として入檀し、中村檀林の基礎がつくられた。
とりわけ心性院日遠の高弟である第四世日要は、中村檀林西谷に大頭寮を開設し、自らの字を付して観月庵と名づけ、ここに起臥して学徒を指導した。
これが中村檀林における西法眷の始まりで、後年、日要を西法眷の開祖として尊崇した。
第五世化主実性院日在ののち不受派の指導者長遠院日樹・寂静院日賢・遠寿院日充・日堯を第六-九世化主として迎え、関東不受派のために大いに力をつくした。
しかし寛永七年(一六三〇)二月の受派(身延方)・不受派(池上方)との論争である身池対論に敗退させられた不受派は、拠点の池上本門寺・京都妙覚寺を身延に接収された。
中村檀林も身延に違越すべからざるの起請文を出させて不受の学徒を追放し、身延の支配下に置かれた。
寛永七年四月には日領・日樹・日賢・日進・日充ら不受僧が流罪に処せられ、中村檀林化主を務めた日樹・日賢・日充.日堯は除歴させられた。
身延の支配に入れられた中村檀林は、僧那院日豊・通心院日境が第七-八世化主として入檀したが、とりわけ寛永一七年に入檀した日境は、時の上座である妙心院日奠・隆源院日莚の協力を得て、正保元年(一六四四)には講堂を再建するなど、学徒が離散し荒廃した檀林の復興を図った。
日境は日豊の要請をうけて飯高檀林より移ったが、日境を敬慕する八○有余の学徒も来檀したため、東谷に真如庵を創して学徒を育成した。
これを東法眷と称し、日境を東法眷祖と仰いだ。
ここに西法眷(西谷)、東法眷(東谷)の二法類が成立した。
のち、この西法眷に妙心院日奠の学徳を慕う学徒によって、日奠を祖とする奠師法類が形成された。
奠師法類は平賀本土寺・京都妙覚寺を法類所属の縁寺とし、京都妙顕寺・本国寺を出世寺として本山住持権を確保した。更に西法眷には日奠の法弟、隆源院日莚を祖とする莚師法類も形成され、三河長満寺を縁寺とし、同じく京都妙顕寺・本国寺を出世寺とした。
この二法類は中村檀林西法眷の二大法類として大きな勢力をもつに至った。
一方、東法眷には通心院日境を祖とする境師法類が形成され、玉沢妙法華寺を出世寺とし、また久遠成院日親を祖とする親師法類、更に了義院日達を祖とする達師法類が形成され、それぞれ中山法華経寺を出世寺とし、その住持任命権を確保した。
よって中村檀林は飯高檀林と共に、その法類出身者によって関東・関西の大寺諸山を掌握して一大勢力をはるばかりでなく、それにつらなる多くの学徒を輩出し、近世日蓮教団を組成する原動力となった。