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法類

ほうるい #3925

法類

ほうるい

法縁・法眷(ほっけん)ともいう。
檀林の発達・増設に伴って、それぞれの系統が形づくられ、その学系に属するものが一つの団体として定着していく。
その団体を法眷・法縁法類などと呼ぶに至った。
正元年(一五七三)下総飯塚に要行院日統(-一五七九)により開かれたのちの飯高檀林を始めとし、同八年には教蔵院日生の京都松ケ崎檀林、次いで上総正法寺の小西檀林、京都本国寺の求法院檀林、また身延では日遠の西谷檀林など、関東京都各地にわたって宗門僧侶教育機関としての諸檀林の開設が相次いだ。
この傾向は織田・豊臣代から江戸前期に続き、関東方面には大沼田・宮谷・細草・南谷・玉造・野呂・碑文谷、京都には東山・鷹ヶ峯・山科・大亀谷・鶏冠井(かいで)などの一〇数箇所の檀林が増設され、それら檀林学寮での学徒の指導方法も整備された。
飯高檀林では中台谷・城下谷(ねごやさく)・松和田谷三学寮の寮長がそれぞれに寮生の学・日常生活を指導し互いにその秀越を競った。
また、中村檀林が東谷と西谷に分けて指南したことに做い、他の諸檀林も学徒を両谷に分けて指南し行学の増進を競い、これを谷(さく)指南と呼んだ。
指南を受けた学徒たちは指南頭の学徳を敬慕してその名のもとに系統を形づくり、法眷・法縁法類を形成した。
また、檀林の発達に伴い、一部の本寺住職権が次第に学系によって相続される傾きが生じた。
享保一九年(一七三四)身延三五世日竟示寂、その後薫をめぐって松和田谷の先匠日咬と中台谷先匠の日潮を推す両谷の法脈学閥的争いは池上日顗の五ヵ条の調停案も功を奏せず、やがて二年後の日咬の示寂により自然解決を見たが、この調停案は、まず先輩日潮を日竟の後任とし、日咬後任には飯高三谷先哲次第と述べている。
また一般的にも各檀林、もしくは各谷に発する一つの学系に属する者が住職となった寺は、その系統・法類として定着し受継がれていった。
法類が一檀林に数箇生じた例と一檀林が一法類をなしたものがある。〈コメント〉

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