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松ケ崎檀林

まつがさきだんりん #3558

松ケ崎檀林

まつがさきだんりん

蔵院日生により京都松ケ崎に開設された宗門僧侶関。
叡山に学んでいた要行院日統は天正元年(一五七三)故山である下総飯塚に飯塚談所を開いた。
日統が叡山研学中の同学の後輩に蔵院日生・蓮成院日尊がある。
日生は播州(兵庫県)・鳥井氏の出で十一歳の永禄六年(一五六三)京都立本寺日経に師事し、長じて岡山蓮昌寺の檀越某の外護を得て京都松ケ崎に庵を結び、天台三大部を熟読すること数年、本寺日禛の勧めによって叡山に遊学したという。
日生は松ケ崎に学室を開き門下を教育していたが、日統開講のことを聞き正五年三〇余人の学徒を率いて飯塚に赴き日統の化を助けた。
同七年日統は病を得、後を日生に託して示寂、日生は後をうけて学を講じていたが、飯塚の学生・僧檀は年少の日生が講会の主導を執ることを不満に思ったのか、また当時の飯塚は不受不施派であったため日生は悦ばず、日生は飯高に移って開講し、これをのちに飯高檀林という。
寺日禛の弟子といわれる叡山同学の日尊は、京都より下関して飯高での日生を助けた。
日生は三大部を講じ、階梯・年次を定めて指導して後世の檀林学の規準となったため「経の鼻祖」と称された。
のち飯高を日尊に委ねて帰洛、正八年旧講の地に松ケ崎談所を開いたのである。
後世、飯高・松ケ崎の二談所を関東関西の両根本檀林と称した。
このようにして関東に関西派学が移植され、京都学派の三大部講義を主とする学問が盛んになり、やがて関東八檀林が成立し京都にも六檀林が開されるに至る。
日生は立本寺九世となり文禄四年(一五九五)七月二四日示寂した。
なお京都妙顕寺一七世日中村檀林の玄義の講主から鶏冠井、松ケ崎、求法院三檀林の化主となり、同寺二二世日妙・二五世日詮、また小湊誕生寺二二世日迨・甲州妙了寺一六世日量なども松ケ崎の化主として学問をじた。
ほかに肥後常光寺二世日収・能州滝谷妙成寺一三世日鳳・京都立本寺一七世日審なども松ケ崎に学んだ。

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