出世寺
出世寺
しゅっせでら
出世とは世に出現するの意。
即ち諸仏が世間に出現して正覚を成じ、衆生を教化し度脱せしむるをいう。
後世わが国では、特に公卿の子息の出家して妻帯しないものを称し、これらの人々は特に昇進が早いので、転じて僧侶の高位顕官に昇り、あるいは大寺に晋董することを指すようになった。
立身出世の観念はここから生れたもの。
即ち出世寺とは出世して晋董する本山格の大寺をいう。
近世に入り、日蓮宗一致派においては、僧侶の教育学習機関である関東八檀林・関西六檀林と称される檀林が開設され、門流の枠を超えた多くの学徒が集まり、近世教学の教育研究の拠点となっていったが、この檀林が整備拡充され、学徒の増加するに伴い、諸檀林では学徳秀れた有力な能化を中心とする学系(閥)が形成され、やがて教団内における一系統を成立させた。
それが法類、法縁である。
そして檀林の発展に伴い、寺の住職権が、それまでの門流から次第に学系によって相続される傾向を示し始めた。
即ち、ある寺に一定の谷、あるいは法類に属する僧侶達が入住することを重ねる内に、その寺は自然と入住者達が属する谷なり法類なりの特定の縁故ある寺とされ、その寺を或る檀林の何谷または何法類の縁寺と呼んだ。
その縁寺の内の本山格の大寺を出世寺と称し、これに晋住するを栄誉とするようになった。
たとえば飯高檀林は要行院日統が叡山遊学を終え下総に帰り、天正元年(一五七三)に下総飯塚光福寺に学室を開いた飯塚講肆に始まる。最も古い伝統を有する檀林であり、後を受けた同学の教蔵日生が天正七年飯高に移して飯高談所とし、その後、慶長元年(一五九六)蓮成日尊が、土地の有力者平山刑部の外護により飯高檀林として、盤石の基礎をつくりあげた。
飯高檀林が次第に隆盛に赴くにつれ、順次三つの谷に学寮が開設され、谷頭を中心とする集団ができた。
即ち最初に飯高一二世円是日耀を谷頭とする竜眼庵が中台谷に設けられ、次いで寛永九年(一六三二)一三世寿量日祐を谷頭とする向城庵が城下谷に開設された。
因みに「城下」と書いて「ねごや」と読むのは「根小屋」と書いて山上に城のある城下町をいい、これは城の下に兵卒のための寝小屋を作ったことに由来するという。
そして最後に一五世寂遠日通を谷頭とする松和軒が松和田谷に開かれ、ここに三つの学系が成立した。
この三谷は互いに鼎立して学徒を養成し、学系が固められていった。
学系が固定化するにつれて、ある寺の住職はどの学系即ち谷の出身者に限るということや、修行階梯による出世寺格が定まるということが制定化し、谷毎に「持ち寺」「出世次第」「出世寺」が固定していった。
飯高檀林は身延久遠寺・池上本門寺を出世寺としたが、その中でも松和田谷の寂遠日通と中台谷の一円日脱が身延久遠寺にそれぞれ三〇世、三一世として入寺して以降、この両谷が身延久遠寺を出世寺と定め、城下谷をも含めた数度に及ぶ飯高檀林各谷における身延貫主職争奪の過程を経て、四二世日辰以降は松和田谷と中台谷の両谷から順次、学徳法臈次第に晋む例となり、それは明治初年に飯高が廃檀になる七二世日健に至るまでに及んだ。
中台谷からは、日脱を中心とする脱師法類と日潮を中心とする潮師法類が派生し、松和田谷は堀之内・一ノ瀬・千駄ケ谷・雑司谷の各法類が派生したが、総じて通師法類という。
また城下谷は飯高一四世一乗日養が池上本門寺に二一世として入寺して以来、同谷は池上本門寺を出世寺とし、のち池上三法類の妙玄庵・樹下庵・中道庵、堺法類が派生した。
また中村檀林は関西の京都妙顕寺・本圀寺を出世寺としたが、東法眷に境師・親師・達師法類が、西法眷に奠師・莚師法類が派生した。
この他に、小西檀林の小西法類は小室妙法寺や藻原藻原寺等を出世寺とし、西谷檀林の鏡師法類は池田本覚寺等を出世寺とした。
《『諸檀林並親師法縁』、影山堯雄編『小西法縁史』》