真如
真如
しんにょ
サンスクリットtathatāもしくはbhūta-tathatāの訳。
もののあるがままのすがた。
如実に知見せられた真なるもの、存在の本質的なあり方で、究極的な実在をもいう。
真(bhūta)とはその体が虚妄でないこと、如(tathatā)とはその性が転変しないことである。
阿含や部派の仏教では四諦八正道や縁起の理法が真実な永遠不変なものとして真如といわれた。
大乗では空性(śūnyatā)、即ち存在の本性が人法二無我で一切の差別相を超えて絶対的に戯論寂滅(prapañcopaśama)で一であるのを真如と称し、如来の法身(dharma-kāya)の身性とする。
唯識法相宗では真如そのものは円成実性で虚妄を離れ凝然として諸法として変作せず、従って万法はすべて第八識の転変であるとする。
中国の地論宗では第八阿梨耶識、摂論宗では第九阿摩羅識がそれ自体自性清浄心として真如であり、その識が無明の熏習を受けて染汚しているとする。
『大乗起信論』では真如に不変と随縁の二面を認めて真如縁起を論ずる。
華厳宗では事事無礙をもって万法をそのまま真如であると断ずる。
また天台宗では性具説を説いて真如そのものにも本来的に染浄善悪を具えていると見る。
一般に法界・法性・実際・不思議界・一心・自性清浄心・如来蔵・真際・実相は真如の異称である。
日蓮聖人は余り真如のことにはふれず、時として南無妙法蓮華経の唱題の行がそのまま本尊の証しであり、その当人に九識心王真如の都が開かれるとされることもある(『日女御前御返事』定一三七六頁)。
《『遺文辞典』教学篇「真如」の項、『広説仏教語大辞典』「眞如」の項、『新版仏教学辞典』『岩波仏教辞典』「真如」の項》