無明
無明
むみょう
avidyā、無知の意味、真理に暗いことをいう。
十二因縁の一、三惑の一。
(1)十二因縁の第一支としての無明は、無明あるが故に、人は老死憂悲苦悩を受けねばならないから、無明を滅すれば老死憂悲苦悩から解放されるとする。
法華経では化城品等に説かれる。
(2)三惑の一としての無明は、天台教学では(従って日蓮宗でも)見思・塵沙・無明を三惑といい、中道法性の理を障げる煩悩を無明とする。
円教では見思・塵沙の惑は十信の位までの修道において断ぜられ、無明の惑は初住以後の証道において断ぜられ、断ぜられると共に中道の理に明るくなるとされる。
そして証道には十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚の四十二位があるから、四十二品の無明を断ずることになる。
第四十二品目の無明を元品の無明といい、これを断じたときに妙覚の仏となる。
別教では初地以降に無明を断ずることができるから、十二品の無明を断じて別教の仏果を得ることになるが、この仏果は円教の十行の中の第二行にすぎない。
また別教は三惑体別であるから、五十二位を経て次第次第に三惑を断じて行くことになるが、円教は三惑体一であるから、三惑の名はあるが、実は体は唯だ一つの迷妄に外ならず、従って見思を麁動の惑、塵沙を細動の惑、無明を微動の惑と考えて、三惑を同時に修行を積むに従って断じて行くとするのが円教断惑の実態である。
更に本来の法華円教の惑観は無明即明、煩悩即菩提であるから、無明煩悩をばかえって法性・菩提の資助とするところに真面目があり、従って不断而断である。
《『遺文辞典』教学篇「無明」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「無明」の項》