煩悩即菩提
煩悩即菩提
ぼんのうそくぼだい
煩悩と菩提とは相即不二であるという意。
「法性を離れて外に別に諸法あることなきに由り」(『大荘厳経論』六)、煩悩も体は法性に外ならないところを煩悩即菩提という。
また煩悩もその性は空であるから、煩悩の性を達観することが即ち菩提であるという意(『梁訳摂論』一四、『守護章』上六)。
智顗は『法華玄義』二下で四諦について境妙を明すとき、生滅の四諦を蔵教、無生の四諦を通教、無量の四諦を別教、無作の四諦を円教に配す。
無作の四諦とは「理に迷ふを以ての故に、菩提是れ煩悩なるを集諦と名け、涅槃是れ生死なるを苦諦と名け、能く解するを以ての故に、煩悩即菩提なるを道諦と名け、生死即涅槃なるを滅諦と名く」という。
即ち煩悩即菩提・生死即涅槃と説く教えが円教である。ただしここで述べる「即」は無条件に同一という意味ではなく、煩悩と生死は菩提と涅槃の資成という意味において相即するというものである。また相即を実現するには六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の修行も必要である。
しかしこれによって煩悩のままに野放図な生活を享受しておればよいというのでは、中古天台に堕する。
悟れば煩悩即菩提であるが、迷っていれば折角の菩提も煩悩に外ならないという智顗の文を熟視しなければならない。
悟ろうと志す眼を以てみれば、日常の煩悩の中にこそ菩提の芽生えがあるのである。
《『遺文辞典』教学篇「煩悩即菩提・生死即涅槃」の項、『日蓮辞典』「煩悩」の項》