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生死即涅槃

しょうじそくねはん #4146

生死即涅槃

しょうじそくねはん

迷の生死苦と悟の涅槃木楽とが相不二である意。
梁訳『摂論』の下に「生死即涅槃木なり、二は此彼なきが故なり」、同訳釈一三に「生死を離れて別法なきを涅槃と名く」という。 平等絶待のにおいては彼此の差別なく、また現実に生死の苦界を離れて別箇に涅槃界があるわけではない。 生死の苦の中にあって涅槃を証得することをいう。
智顗は『法華玄義』二下で四諦について境妙を明かすとき、生滅の四諦を蔵教、無生の四諦を通教、無量の四諦を別教、無作の四諦を円教に配し、無作の四諦を説明して「理に迷ふを以ての故に、菩提是れ煩悩なるを集諦と名け、涅槃是れ生死なるを苦諦と名け、能く解するを以ての故に、煩悩即菩提なるを道諦と名け、生死即涅槃なるを滅諦と名く」という。 煩悩即菩提生死即涅槃と説く教えを称して円教というのである。
この円頓のを証得するための修行方法が『摩訶止観』であって、章安灌頂の別序に説かれる三種止観のうちの円頓止観の説明が、有名なる「円頓章」である。 云く「円頓とは初より実相を縁ず。 境に造(いた)るにち中にして真実ならざるは無し。 縁を法界に繋け、念を法界に一(ひとし)うするに、一色一香も中道に非ざること無し。 己界及び界・衆生界も亦然り。 陰入皆如なれば苦として捨つべき無く、無明塵労即ち是れ菩提なれば集として断ずべき無く、辺邪皆中正なれば道として修すべき無く、生死即涅槃なれば滅として証すべき無し。 苦なく集なし、故に世なく、道なく滅なし、故に出世なし。 純一実相にして実相の外更らに別法なし」云云とは、釈名段の相待止観・絶待止観に照らせば、絶待止観の意である。 絶待止観の境地を得るには苦を苦と開き、非道を道に資するための並々ならぬ思索と日常の修行とを要するのであるが、捨つべき苦も、断ずべき煩悩も、修すべき道も、証すべき涅槃もなしというので、本能のまにまに欲望充足の生活を享受することが止観修行に外ならないというのでは、中古天台に堕する。 悟れば生死即涅槃であるが、迷っていたのでは折角、涅槃を求めても苦道に外ならないという智顗の言葉も味わう必要がある。
日蓮聖人は『爾前二乗菩薩不作仏事』(定一四六頁)、『上野殿後家尼御返事』(定三三一頁)、『生死一大事血脈鈔』(定五二四頁)等にしばしば生死即涅槃煩悩即菩提のことに言及されたが、内二文を挙げれば、『妙法尼御前御返事』に「故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給しかば、一生乃至無始の悪業変じての種となり給。 煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(定一五三七頁)、『大田殿女房御返事』に「諸大乗経の煩悩即菩提生死即涅槃即身成仏の法門は、いみじくをそたかきやうなれども、此はあえて即身成仏法門にはあらず(略)龍樹菩薩の大論と申す論に譬如大薬師能以毒為薬と申す釈こそ、此の(妙の)一字を心へさせ給たりける歟と見へて候へ。 毒と申は苦集二諦、生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし。 此毒を生死即涅槃煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申けるなり」(定一七五四-五頁)といわれる。 二文ともに煩悩即菩提・生死即涅槃という円教の道理を即身成仏の法門として教示するが、これは即身成仏とは煩悩や生死苦からの解脱の問題をそのままに伏せておいて、即身に一生成仏しようという法門だから、煩悩即菩提生死即涅槃円教が必要不可欠となるのである。
かく相反する二律の相を相対種(そうたいしゅ・じゅるいしゅ・相対種・就類種)の開会といい、智顗はこれをもって法華円教だけが有する特能とし、この道理を日常に具現することをもって非行非坐三昧の中の悪観としたが、聖人はこの特能を妙法五字に具わった功徳として収め容れ、唱題することによって自然に三道即三徳と転じて即身成仏することになるとされた。 しかし五字に含有される功徳を聖人は時として再び取り出して、その実践を強く勧められるから、相対種の開会も我々は悪をもってに資するように分々に思案し、実生活に体現するよう努力しなければならない。
《『遺文辞典』教学篇「煩悩即菩提生死即涅槃」の項》

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