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相対種・就類種

そうたいしゅ・じゅるいしゅ #4217

相対種・就類種

そうたいしゅ・じゅるいしゅ

法華経薬草喩品の「唯如来のみあって、此の衆生の種・相・体・性(略)を知れり」の文を、『法華文句』七上に解釈して、相・体・性については既に十如是の所で解説したからとて略説し、種について「種とは三道は是れ三徳の種なり。浄名に云く、一切煩悩の儔を如来種と為すとは、是れ煩悩道に由て即ち般若有るを明す也。又云く、五無間(阿鼻地獄)皆解脱の相を生ずとは、此れ不善に由て即ち善法の解脱有る也。一切衆生は即ち涅槃の相にして復滅すべからずとは、此れ生死に即して法身と為す也。此は相対に就て種を論ず。若し類に就て種を論ぜば、一切の低頭挙手悉く是れ解脱の種なり。一切の世智、三乗の解心は即ち般若の種なり。夫れ心有る者は皆当に作仏すべしとは即ち法身の種なり。諸種の差別を如来能く知りたまふ。一切種は只是れ一種にして即ち無差別なるを如来亦能く知りたまふ。差別即無差別、無差別即差別なるを如来亦能く知りたまふ」と。
前半に相対種、後半に就類種を説く。
煩悩・・苦の三道を法身・般若・解脱を得るための資助として開会するのが相対種、低頭挙手の小善、九界の凡夫の解心、仏果を含有する理心等、仏果と同類のものを三徳開会するのが就類種である。
湛然は『記』でこれを扶釈して「相対を言はば且らく当体に従へば敵対相翻す」とて、相対種のことを又は敵対種とも呼ぶ。
また「就類とは類は謂く類例、ち修徳なり。衆生無始より恒に三道に居するも、中に於て誰か一毫の種類なからむ」とて、就類種を種類種とも異称している。
古来、因を仏果と同類のものに限定し、染法を仏因から除外するのが通例であって、爾前教はこの限界を出なかったが、今や天台智顗の相対種の開会によってこの限界は突破され、相対する二律の相即という弁証法的思惟によって、煩悩業苦という捨離すべき三道も、却って法身般若解脱の三徳の成就に資助するものと見倣されるに至ったのである。
故に就類種は爾前経にも、一分通ずるが、相対種は只法華円教のみが有する特能であるということになる。
従って智顗は、相対種という言葉こそ用いないが、至る所で相対種の理論を円教の特色として提示している。
例えば『法華玄義』二下の迹門十妙中第一境妙を説くところでは、四諦を蔵通別円の四教に分対して、蔵教は生滅四諦、通教は無生四諦、別教は無量四諦、円教は無作四諦を説くとし、無作四諦を説明して「理に迷ふを以ての故に、菩提是れ煩悩なるを集諦と名け、涅槃是れ生死なるを苦諦と名け、能く解するを以ての故に、煩悩即菩提なるを道諦と名け、生死即涅槃なるを滅諦と名く」という。
これ相対種を以て円教の無作の特色と見たわけである。
では法華経のどこに相対種の開会があるのか。
法華玄義』五下の三法妙にて類通三道を釈する中に「資成(軌)即業道とは、悪は是れ善の資にして悪無ければ亦善無し。文に云く悪鬼其心に入り我を罵罵毀辱するとも、我等仏を念ずるが故に皆当に是事を忍ぶべしと、悪来りて加へずば念を用ふることを得ず、念を用ふるは悪加はるに由る云云。又威音王仏の所にて著法の衆不軽の言を聞きて罵詈打拍す、悪業に由るが故に還て不軽に値い、不軽教化して皆不退を得たり。又提婆達多は是れ善知識なりと。豈に悪ち資成に非ざらんや」という。
第一文は勧持品二十行の偈文の一節で、迫害という悪が加えられるからこそ一層を念ずる心が涌くのであるという。
第二文は不軽品で、我不敢軽慢という不軽菩薩の言を聞いて悪口罵詈・杖木瓦石の悪業を加えたが、悪業を加えただけそれほど深く心田に毒鼓の縁を結んだから、その縁によってやがて不退を得るに至ったという。
第三文は提婆品で、人提婆の存在こそ釈迦成道に不可欠な資助であったとするものである。
これ全く日蓮聖人の人格形成の過程に相している。
聖人勧持品行者値難の経文を色読・忍受することによって信心を深め、使の自覚を形成された。
折伏逆化は末法の自然堕獄の衆生に毒鼓の縁を結ばしめるためであった。
提婆達多是善知識は『四恩鈔』に伊豆流罪に処した国主こそ善知識であるといい、『開目抄』に「敵なければ我が非を知らず」(定五八○-一頁)といい、『種種御振舞御書』に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ(略)日蓮がにならん第一のかたうどは景信」(定九七二-三頁)といわれることと寸分違わぬ。
まさに聖人は相対種の開会の実践者であられたわけである。
遺文中では『始聞仏乗義』に「末代の凡夫法華経を修行する意に二有り、一には就類種の開会、二には相対種の開会也」(定一四五二頁)とあり、『妙一女御返事』には「種類種・相対種の成仏、何れも其実義は本門寿量品に限れば、常にかく観念し給へ」(定一七九九頁)とあり、また『御義口伝』の薬草喩品のところにも「種類種・相対種の二の開会之有り」(定二七一七頁)とある。
右のうち就類種は智顗の用語、種類種は湛然の用語である。
その意味は『始聞乗義』に依らねばならぬ。
曰く、就類種は少分は爾前円、他師の円にも通ずるが、相対種は独り法華経だけに説かれる。
何故に法華経は三道をもって三仏因なりと開会できるかというと、龍樹菩薩は『大智度論』に妙の一字を「譬へば大薬師の能く毒を以て薬となすが如し」と釈し、智顗は『玄義』のに「妙名不可思議」と釈したように、妙には毒を変じて薬となす不可思議な働きがあるからであると。
かくて聖人は、相対種の開会を即身成仏に結びつける。
父母の精血たる赤白二渧和合により生れた不浄の身はそのまま法身開会されるからである。
但し、智顗は法華経の中から相対種の開会という道理を取出して、これを実人生に当てはめたが、聖人は智顗の相対種の論理を法華布教の場において実践して法華経の真実を証明し、これを妙法蓮華経という教乗の具徳として、法華経の中に摂取したところに智顗との相違がある。
《安藤俊雄『台性具思想論』、『遺文辞典』学篇「相対種」「就類種」の項

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