善知識
善知識
ぜんちしき
梵語kalyāṇamitraの訳語で、人を仏道に入らしめる人をいう。
元来、善知識とは悪知識に対し、親友、善友という有徳の友を意味する。
故に『開目抄』に「善知識と申すは一向師にもあらず、一向弟子にもあらずある事なり」(定五六八頁)といわれる。
これより転じて、釈尊の教えを伝える人、自身を化導利益してくれる人を指す。
法華経では提婆品・厳王品に見い出される。
日蓮聖人はこの善知識を大きく二つの意味で捉えている。
一つは『守護国家論』に「末代に於いて真実の善知識有り。所謂法華・涅槃是れなり。(略)末代に於いては真の知識無れば、法を以って知識と為す」(定一二三頁)といわれるように、法華経をもって善知識としていることである。
これは法華経の実践を根本としていくところに信仰の姿を示しているわけで、聖人が文永八年法難を契機に善知識=法華経、法華経=聖人自身と展開し「五義」の「師」を詮明にしていく重要な要素となっている。
またもう一つは聖人自身を法華経の行者とさせた逆縁謗法者を当てていることである。
これは『種種御振舞御書』に、聖人を法難に導いた北条時宗をもって「相模守殿こそ善知識よ」(定九七一頁)といわれていることからも明らかなように、逆縁者をも法華経流布の担い手として、法華経の包摂的精神を表している。
要するに善知識を聖人は二義に捉えられているが、これは別々のものではなく、法華経思想が内外にわたり、実践性と救済性を備えていることを意味し、それを具体的な歴史上で示していったのが聖人だったのである。
《『遺文辞典』教学篇「善知識」の項、『日蓮辞典』『広説仏教語大辞典』『岩波仏教辞典』「善知識」の項、『新版仏教学辞典』「善知識・悪知識」の項》