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五義

ごぎ #460

五義

ごぎ

五義とは『教機時鈔』の用語(定二四一-三頁)で、教機時(師)の五項目をいう。 後世はこれを「五綱」とも呼ぶ。
五義の役割〕
一に五義は日蓮聖人が一切仏教の中から法華経、法華経の中から一大秘法としての題目の妙法五字、ないし三大秘法を選取するに至られた理由を説明するための教判である。
二には『顕謗法鈔』に五義を指して「弘法用心」(定二六三頁)というように、妙法五字法華経の行者広宣流布するに必要な心の用い方(対外的)、心くばり(対内的)の規準である。
三には弘長二年(一二六二)伊東配流中に『機時鈔』において初めて五義が発表されたのであるが、伊東配流は聖人が受けた流罪の最初、王難の最初、聖人の宗教禁制となった最初である。 そのに臨んで五義が発表されたということは、五義はいかなる妨害にも阻止されないという、法華信仰の広宣流布の歴史的必然を示したものである。
立正安国論』を上奏して幕府の宗教対策の誤りを指摘したということは、幕府に対する批判であり、また念仏を禁断せよと主張したことは念仏者の怒りを招いた。 その結果、幕府は法華信仰の禁断をめざして聖人を伊豆流に処した。 聖人はこの時に際して、法華経の末法日本国における流布の必然性を示すべく、五義に約してこれを明示されたのである。
機時鈔』の後半の知五義の段にその意味を明瞭に汲みとることができる。 ち「法華経は一切経の中の第一の経王なりと知るは、是れ知教者也」、「日本国の一切衆生は(略)一向に法華経の機也(略)是れ機を知れる者也」、「日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当って妙法蓮華経広宣流布刻也。 是を知る者也」、「日本国は一向に法華経の国也(略)是れ国を知る者也」、「桓武天皇の御宇に伝教大師有して小乗権大乗の義を破して法華経の実義を顕せしより已来、又異義無く純一に法華経を信ず(略)大日仏陀禅宗を弘め、法然・隆寛浄土宗を興し、実大乗を破して権宗に付き、一切経を捨てて教外を立つ(略)此は教法流布の先後を知らざる者也」(定二四三-五頁)と。

五義の先例〕
田中智学『日蓮聖人の教義』に「機ということに就ては浄土宗が大に力を入れた、時の判は日本の伝教大師が説明せられたが教綱とするほどの決断は下さない、国判も伝教大師は大いに着眼されたのであるが、それは戒壇建立に就てであって、猶ほ立宗の綱格とまでは行かなかった、判に至っては曽て以て何人も言はない所である」(八四頁)とある。
法然は従来の教法の浅深判を捨てて、機教相応判を創立し、末代の当機に相応する易行を求めて念仏を発見したところに、従来にみられない法然の独創がある。 しかし聖人はその機教相応判を、一面では種は春に蒔くべきことを知れるものとして高く評価しながら、地面では種の良否の選定を欠落したものとして反対し、まず種の良否の選定(教)、次に種を蒔くべき時を心得るべきであるとして教・機・時の順序を立てられた(浅井円道「五義判の形成過程の研究」、「宗祖対法然房」『大崎学報』一一八・一二八号)。
また伝教大師と五義との関連については、塩入亮忠(『大崎学報』九一号)・真流堅一(『芸林』八-一号)等が五義のすべては伝教大師にもあったことを指摘したが、もし五義が全面的に伝教から譲りうけた法門であると主張するなら誤りで、たまたま伝教に五義に相当する言葉がすべて存在していたとしても、伝教が特に力を注いだのは田中智学もいう通り国と時とであって、『顕戒論』は日本国を「一向大乗国」と見て一向大乗戒の建立を主張し、『守護国界章』上巻の弾謗法者大小交雑止観章第一三では、徳一が天台止観を破して智顗は天親の止観論や護法の六門論を披閲もせず、勝手に自己の胸臆に任せて止観を立てたのであるから、如来の聖意を乱すものであるとて、種々に論難したのに対して、最澄は「当今人機皆転変して都て小乗の機なし、正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り、法華一乗の機、今正しく是れ其のなり」として判をもって総破する。 ち修行道に三あり、歩行迂回道、歩行歴劫道、飛行無礙道であるが、徳一の示す止観は大小交雑の歩行道であるから、末法太有近の時代には「非時非機」のえであり「有無修人」のえであるという。 これは明らかにによる行法の選択である。 故に先行するこれらの所説を収集し体系化して五義が出来たと見ることも可能であるが、五義の芯にあるものは茂田井教亨「五義の体系的考察」(『観心本尊抄研究序説』)に指摘されるように、聖人の行者・知者としての意志である。

五義の依文〕
依法不依人を生涯の規範とし、思想信仰の原拠を法華経に求めた聖人としては、五義の原拠をも法華経に置いたに違いない。
『神御書』に「法華経の第七の巻を見候へば、於如来滅後知仏所説経因縁及次第随義如実説如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇等云云。 文の心は此法華経を一字も一句も説く人は必ず一代聖教の浅深と次第とを能々弁へたらむ人の説くべき事に候」(定八八六頁)とあり、この文によって、於如来滅後=時、知仏所説経=教、因縁=機・国、及次第=教法流布の先後、随義如実説・斯人=師、行世間能滅衆生闇=下種と解釈する人に優陀那日輝(『弘経要義』、『妙経宗義鈔』)、茂田井亨(先掲書)らがいる。

五義各項解説・五義の変遷〕
(一)「」。とは教法の浅深。 大乗小乗、権大乗大乗、顕教密教等の一切経の中から法華経、就中、法華経の肝心たる妙法五字を最深の教法として選取し、もって日蓮宗宗旨を建立するための教相判釈をいう。
法華経を選取するための聖人の初期の教判天台大師智顗が『法華玄義』巻一〇・大本『四教義』で説いた五時八教判(ごじはっきょう)、『法華玄義』巻一で説いた三種教相(さんしゅきょうそう)であった。 四重興廃(しじゅうこうはい)をも聖人は依用したと見る人もあるが、遺文中四重興廃に言及した例は『十法界』(定一四〇頁)、『立正観鈔』(定八四六頁)、『同送状』(定八七〇頁)のみであり、むしろこれにはよられなかったと見た方が正しい。 殊に五時八教判が聖人の法華経選取の基盤であるが、智顗の所説には爾前円(華厳・方等・般若の兼・対・帯の円)と今円(法華の純円)とを円体無殊とする約教与釈が多く、六祖湛然に至って超八醍醐(ちょうはちだいご)論の如き約部奪釈の面が強くなったので、聖人は湛然の意を汲んで五時八教を論じ、『立正安国論』作成時代には爾前(にぜん)無得道論を創案した。 法華経以外には成仏得道の道なしとするもので、これが『教機時国鈔』に至って「一向法華経」の主張となったのである。 「一向」とは「専ら」「ひたすら」「一途に」の意味であり、「法華経」とはこれを行に約せば、身に色読、口に唱題、意に強盛の信心の意味であることはいうまでもない。
ただし佐渡配流前は権実相対どまりであり、他経に対する法華経、題目も法華経一部の題目であった。 佐渡配流後は本迹相対が生れ、法華経の中でも本門法華経、観心に約せば迹門の理一念三千であったのが、本門の事一念三千、法華経一部の題目であったのが、本門の題目となる。 本門法華経を詮顕するための教判五時八教では間にあわず、『開目抄』で五重相対(ごじゅうそうたい)、『本尊抄』で四種三段(ししゅさんだん)が新たに発表された。
五重相対とは内外・大小・権實・本迹・教観と次第して五重に相対して「但法華経の本門寿量品の文の底にしづめた」(定五三九頁)る一念三千の法門を詮顕するための教判であり、四種三段とは一代・一経・二門・本法と次第して四種にわたって序分・正宗分・流通分を分別し「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」(定七一四頁)とて、「過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世の諸仏の微塵の経々」(定七一四頁)を序分として、本法としての一品二半正宗分として選取し、更に「在世の本門と末法の初は一同に純円也。 但し彼は脱此は種也」(定七一五頁)として末法下種の要法たる妙法五字を選ぶことをもって流通分とする。
四種三段は本抄の流通分の初の第二一番の答えの中にあるが、その前に序分では能観の題目を説き、正宗分では所観の本尊を説いて、三大秘法中の二種を顕説する。 これに本門の戒壇が加わって三大秘法が完備するのは、本抄の翌年の文永一一年(一二七四)正月一四日に発表された『法華行者値難』(定七九八-九頁)においてである。

(二)「」。 とは発の意、教法を受ける者の解能力をいう。 故に弘経者が布教の効果をあげるには、機を知ることが大切であるが、『教機時国鈔』には「智恵第一の舎利弗すら尚を知らず。 何に況や末代の凡師は機を知り難し」(定二四二頁)、『顕謗法鈔』にも「能化の人も仏にあらざれば、機をかがみん事もこれかたし」(定二六〇頁)とあり、後年の『撰時抄』でも「十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで、時と機とをば相知りがたきなり。 何に況や我等は凡夫なり。 いかでかをしるべき」(定一〇〇五頁)という。
そこで知を不可能とする末代の凡師は「所化の弟子に一向に法華経を教ゆべし」(定二四二頁)、「されば逆縁順縁のために、先づ法華経を説くべしとゆるし給へり」(定二六〇頁)という語依存の立場が生れることになる。 『撰抄』に「仏眼をかつてをかんがへよ」(定一〇〇五頁)とはその意味である。 しかしこのときの「」とは各々の十人十色の個的機ではなく、全体としての平均的機・通機であり、末代という時の機、日本国という社会全体のである。 「仏眼をかつて」とは既に(経文)に規定された通りに鑑せよという意味である。 従って法華経並びに依法不依人の人師たる天台大師の釈によれば、不軽品釈に機を大きく本已有と本未有との二類に分ける。
本已有とは、過去に法華経を聞いて成仏の種子を心田に下された者、本未有善はまだ聞法せず、成仏種子を有しない者をいう。 釈尊在世の衆生は過去五百塵点・三千塵点に久遠下種・大通結縁を蒙った者であるが、中間に退転した者であるから先権後実の化導を施して法華の会座で得脱せしめられた。 このに初めて法華に下種結縁された者は、正像二千年に龍樹・天親・天台・伝教等の諸師が権實双用または以偏助円化導を以て調熟し得脱せしめられた。 かくて末法には在世結縁の者も後を絶ち、聖人は不軽菩薩の如く妙法五字をもって本未有善の衆生に下種結縁された。 色具足の大良薬のみよく末代重病を救う理により、妙法五字は正しく本未有善の機のために遺された教法である。 しかし聖人在世に順逆の二縁があり、聖人の説法を聞いて信従した弟子檀越は順縁であり、その他の多数の誹謗加害の人々は逆縁であり、正しく本未有である。 順縁は地涌の菩薩の眷属であるから、天台教学(『法華文句』一上)によれば、久遠下種・過去為熟・近世脱益の人であり、衆生を哀愍して娑婆に化現した権化であるということになる。

(三)「」。聖人学上、の意味は極めて重要な位置を占めている。 「今は末法である」という時の認識によって教学を調整することは、既に法然が機教相応の観点から末代愚人悪人に対する一向専修の念仏を勧めた。 聖人法然を批判しつつ、反面、時を鑑みることが布教上不可欠の見地であることを学び取った。
しかしとの関連については法然と違う。 法然の機教相応判は今は末代であるということを大前提として教を選択し、末代の機にふさわしい易行として念仏を選び出したのであるが、聖人説に順じて時を定め、説のままに弘めるべきを定めたのである。 『撰抄』の「仏眼をかつてをかんがへよ」(先引)の文は正しくそのことを物語っている。
によって現時を定めるとは、『大集経』月蔵分に説く五箇の五百歳(ごかのひゃくさい)と、諸経に散見する正像末の三時とにより、第一の五百歳の解脱堅固と第二の五百歳の禅定堅固とは正法時代、第三の五百歳の読誦多聞堅固と第四の五百歳の多造塔寺堅固とは像法時代、第五の五百歳の闘諍言訟白法隠没は末法万年の始とし、今は仏滅後二千二〇〇余年であるから、仏説によれば末法に入って二〇〇余年に当るとするのである。
仏滅後二千二〇〇余年とは、仏滅年代の算定の仕方には種々の異説があるが、聖人の場合は『末法灯明記』所説の『周書異記』の説により、B・C四八六年を仏滅の年としたことが『守護論』(定一〇〇頁)等によってわかる。 また説によってを定めるとはいえ、現実の様相を無視するものではない。 現実の様相を見て今は末法なりと認識するというのではないが、権教が実教を誹謗し、俗界では自界叛逆難・他国侵逼難がしきりに起きて、日本国の真俗の両界にわたる闘諍堅固の現状は、正しく仏記が現実に具現したものとして受容するのである。 そして法華経には薬王品に「我滅後五百歳広宣流布」とあり、同じく勧発品には三箇所に後五百歳に法華経の流布すべきことが記してあるから、『大集経』に示された第五の五百歳の時は妙法広布に外ならないのである。 『機時鈔』に「日本国の当世は如来滅後二千二百一十余年、後五百歳に当って妙法蓮華経広宣流布刻也」(先引)等とはその意である。
次にとの関係については、機は個々の衆生機根であるのに対して、時は末法というの通である。 そして『機時鈔』に「出世したまふて必ず法華経を説かんと欲するに、縦ひ機あれどもなきが故に、四十余年此の経を説きたまはず。 故に経に云く説未至故等云云」(定二四二頁)、『当世念仏無間地獄事』(定三一七頁)にも同意の文あり、『撰時抄』には「初成道の時は法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩、梵・帝・四等の凡夫大根の者かずをしらず。 鹿野苑の苑には倶鄰等の五人、迦葉等の二百五十人、舎利弗等の二百五十人、八万の諸天、方等大会の儀式には世尊の慈父の浄飯大王ねんごろに恋せさせ給ひしかば、仏宮に入らせ給ひて観仏三昧経をとかせ給ひ、悲母の御ために忉利天に九十日が籠らせ給ひしには摩耶経をとかせ給ふ。 慈父悲母なんどにはいかなる秘法か惜ませ給ふべき。 なれども法華経をば説かせ給はず。 せんずるところにはよらず、いたらざればいかにもとかせ給はぬにや」(定一〇〇五頁)というによれば、講会に参集した個人の機または複数の機、つまり、一機一縁のために説かれた法は権教であり、実教は一仏乗を聞くに堪えるに至った時代全体の通機に対して説かれねばならぬ、これが三世説法の儀式であるという意を汲み取ることができる。
三世諸仏説法の儀式は常に種・熟・脱三益(さんやく)を繰返す。 初め実をもって下種し、中間に権教をもって成熟し、終りにまた実教をもって脱する。 これが原則である。 従って釈尊も過去下種の人を権教をもって成熟して根性を融会し、終りに法華を説いて脱せしめられた。 釈尊在世の法華説法で下種益を得た人は正像二千年の間に度脱せしめられたので、末法は下種の時であり、従って法華経、その中でも最上の良薬たる本門を広宣流布すべきに立ち至ったのである。 而も三益三世九世時々刻々に繰返されているというのが天台三益論の原則であり、ミクロの結合がマクロであるとすれば、末法における聖人の法華弘通の中にもそれがあると見なければならない。
聖人の生涯を顧みるとき、諸処にその点が認められるが、一例を挙げれば、『三沢鈔』に真言宗との公場対決のときに「まことの大事」(定一四四六-七頁)を披露しようと思っていたが、竜口法難よりのち、公場対決の機会が訪れることはないとわかったので、『本尊抄』を佐渡から送ったといわれるのがそれであって、至らねば説かぬ底のものである。 もっての大切さを認識すべきである。
以上は過去の仏法流布の歴史を経過した歴史的時間であり、そこに「教法流布の先後」()との関わりが認められる。 そしてこのは教に予記された必然のであって、単なる偶然のではない。 しかもその必然は必然のなかの自由として行為的に具現されてゆく必然であるから、実は行為者たる「師」が必然を必然ならしめるところに、師との関わりがある。
このような歴史的間の外に聖人には絶対的がある。 『本尊抄』の「今本時の娑婆世界」(定七一二頁)、『種種御振舞御書』の「在世は今にあり、今は在世なり」(定九七一頁)等は今の我れと本時の釈尊、在世釈尊とを間を超えて直結する感応の純粋の謂である。 そしてこの宗教的絶対時こそが教を真実化し、歴史的時間を必然化し、を本土化し、師を感奮せしめる根源である。

(四)「」。とは元来依報を意味し、直接に教の所対とはならないが、一念三千の世界観から見れば依正不二であるから、教との関連が必然性を帯びて来ることになるため、能弘の師と所化が所弘の法を中心に歴史を展開する場とのみ限定してはならなくなる。 土にも十如是因果を置く(定七〇三頁)のであるから、今の日本国は如何なる教法流布の因縁を有すかを考察することが、知の第一条件となって来る。 「日本国は一向に法華経の国也(略)日本国一向大乗の国なり、大乗の中にも法華経の為るべき也。 瑜伽論・肇公記・聖徳太子伝教大師安然等記之有り」(定二四四頁)という『教機時鈔』の断定はここから生れる。
しかし一方においては、「日本国一同に謗法」(定六九九頁等)という認定がある。 『安国論』撰述の意義はそこにあったが、同書建白以来蜂起した「三類の敵人」の具現によって、その認定はいよいよ確実性を帯びるに至り、蒙古の来牒後は国土の謗法は動かぬものとなった。 『本尊抄』の「今末法の初、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、地顛倒せり」(定七一九頁)とはその結論である。
しかるにこの謗法充満の日本国をもって本尊造立の国土とし「一閻浮提第一の本尊、此に立つべし」(定七二〇頁)という想を掲げられる。 さきの「一向法華経の」という認識といい、これは一見矛盾に見える土観である。 しかし矛盾ではない。 一謗法という国土観は末法思想に由来する悪土観の延長である。 なるが故に、法然はこれを厭離して西方極楽往生を熱心に勧め、権教念仏は次第に土に充満するに至った。 それより早く権真言は天台宗の慈覚・智証の理同事勝の教えに便を得て興盛し、伝教大師が折角築きあげた一向法華経の国を後退させて権教の国となし、実教の復権を強く主張する者に遮二無二迫害を加えたので、聖人は末法のこの闘諍堅固の様相を謗国と規定したのである。 謗法は最大のである。 なるが故に娑婆を見捨てたのでは、法華経の「我浄土不毀」の法華経の精神にも背き、身土一念三千の本にも反することになる。
娑婆は釈尊の本時成道以来、依正不二の理により常寂光土なのである。 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住浄土なり」(定七一二頁)とはと感応することを得た行者の絶対観をいう。 ただし現実は五濁に蔽われて本質が隠伏し、穢土の様相を呈している。 従ってこの隠蔽を除去して本質を顕現することは、微力とはいえ末代の衆生の責務であり、菩提心でなければならない。 それが『立正安国論』の誓願なのである。 その誓願が一閻浮提第一の本尊をこのに立つべしという想となるのである。 しかも一謗法という現実は逆に、一国が法華経を熱望している証しであり、法華経の広宣流布の必至の先兆に外ならないことは、宝塔品から神力品・嘱累品までの起顕竟(きけんきょう)の経文が如実に物語るところである。 「大をこれば大きたる。 すでに大謗法国にあり、大正法必ずひろまるべし」(『大善大悪御書』定八七七頁)、「大悪は大善の来るべき瑞相なり。 一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ」(『智慧亡国御書』定一一三一頁)と。
かくして日本国と法華経とを結びつけた国判は、法華流布の必然性と普遍性とから次第に化境を拡大し、国はやがて一閻浮提へと拡がる。 『本尊抄』に「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ」(定七一六頁)、『報恩抄』に「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(定一二四八頁)と。

(五)「教法流布の前後」()。 弘長二年の『機時鈔』のときの序は「必ず先に弘まる法を知て後の法を弘むべし」(定二四三頁)とあり、流布の先後は必ず〈小乗→権大乗→実大乗〉の順でなければならないのに、日本においては伝教大師が一向法華経の国となしたのに、「建仁より已来今に五十余年之間、大日仏陀は禅宗を弘め、法然・隆寛は浄土宗を興し、実大乗を破して権宗に付き、一切経を捨てて教外を立つ(略)此は教法流布の先後を知らざる者也」(定二四五頁)といわれる。 従ってこの分の聖人の歴史的役割は、実から権へと逆行するを改め、再び正常の状態にもどすにあったわけである。
同年の『顕謗法鈔』には名称のみあって説明なく、文永元年(一二六四)の『当世念仏無間地獄事』の「五義」の項(定三一七頁以降)には定かにそれと断定できないが、「法然に於ては純円の機・純円の教・純円の国を知らず、権大乗の一分為る観経等の念仏をば、権実をも弁へざる震旦の三師の釈、之を以て此国に流布せしめ、実機に権法を授け、純円の国を権教の国と成し、醍醐を嘗むる者に蘇味を与るの失誠に甚だ多し」と前書と同意の悲憤がみえる。
続いて同年の『南条兵衛七郎殿御書』においてようやく明瞭な説明が見られる。 その要は「仏法を弘る習、必さきに弘りける法の様を知るべき也」(定三二四頁)というもので、前に与えた薬によっては後に与える薬と調和を破る場合のあることを譬え、小乗・権大乗の教法が流布している国においては、実大乗を以て破るべき順序であるのに、法然は「珠に似たる石をもって珠を投させ石をとらせたる」ことを悲憤する。 これにより明らかなことは、従浅至深の流布の先後は前権後実の道理であるが、教・機・時・国をよく弁えた師でなければこの道理を守ることはできない。 現に大日仏陀法然らの人師は、この道理を顧みなかったために実の後に権を弘めた。 この意味においても、は必ず師へ移行すべき質のものである。
具体的には聖人の値難の事実と予言の的中の可能性とによって、文永六年の『安国論奥書』『法門可申鈔』あたりからようやく変化し始め、文永八年の『寺泊御書』は脱皮の第一歩であり、三徳に約して師自覚を示した。 『開日抄』はその開顕ということになる。 そして『本尊抄』の「此時(時)地涌菩薩(師)始めて世(国)に出現して、但妙法蓮華経の五字(教)を以て幼稚(機)に服せしむ」(定七一九頁)の文は、完全なる教機時国師の表現である。
その後『顕未来記』『法華行者値難事』『法華取要鈔』『聖人知三世事』等を経て『曽谷入道殿許御書』の冒頭の「所謂るを論ずれば正像末。 を論ずれば小大・偏円・権実顕密を論ずれば中辺の両を論ずれば已逆と未逆と、已謗と未謗と。 師を論ずれば凡師と聖師と(略)迹化と本化となり」(定八九五頁)の表示となるのである。
しかし文永七年頃から次第に、権実相対の上に更に本迹相対が加重され、本門法華経の広宣流布を本化上行菩薩の末法における使命とするに至られたとき、今までの顛倒せる序を正常にもどすという消極的役割に甘んじておられたのが、像法の迹門法華経の流布の次には、更に深教たる本門法華経を弘めねばならぬという積極的な役割の認知が生れ出ることになるわけであるから、「」はここに至って初めて完全に意味を発揮することになったと見ねばならないのであって、「師」に移行したからといって「」が消滅したわけではない。

五義という一往教相的範疇に属するものの中に「師」という主体的概念をもつ範疇が混在することは、他の四箇の概念の客観性を破壊することになりはしないかと危ぶまれるが、そこが五義の特異性なのであって、「弘法用心」としての五義は単に客観的教相の範疇にとどまるものではなく、「教」と「師」とが特定の「時」、「」において相互に規定し合う有的統合を有すものなのである。 五箇の各項がそれぞれ「知」によって統一されているのもそれである。
《茂田井亨『観心本尊抄研究序説』、鈴木一成『行学綱要』、『日蓮宗宗義大綱』、『遺文辞典』教学篇「五義」の項、『日蓮辞典』『岩波仏教辞典』「五義」の項
(浅井円道)

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