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聖徳太子

しょうとくたいし #4509

聖徳太子

しょうとくたいし

(五七四-六二二)
用明皇の皇子。 六世紀末から七世紀初めに活動した政治であり、教思想でもある。 名を豊聡耳(とよとみみ)とといい、また上宮太子とも呼ばれる。
その伝記は時代が下るに従って神格化され、神秘的ヴェールに包まれている部分が多く、確実な跡と区別することが困難である。 政治上の績は、まず推古皇の摂政となって政を皇室の手に回復しようとし、次いで冠位十二階を定めて世襲的氏姓政治から官僚制度への転換を計り、憲法十七条を定めて中央集権家建設の綱領を示し、遣隋使を派遣して隋との交を開き、学僧や学生を送って大陸文化の摂取に努めた。 近年では、厩戸皇子(聖徳太子)と記され、聖徳太子虚構説も取り上げられているが、日蓮聖人は「用明天皇御宇聖徳太子仏法をよみはじめ、和気の妹子と申臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給て持経と定め」(『報恩抄』定一二〇七)等遺文の各所でに述べられている。
文化的績としては、教を信仰し、を日本の社会に弘通することに努力した。 ち法隆寺・四天王寺などを建立して仏教興隆に尽力し、法華経・維摩経・勝鬘経の三経を講義し、いわゆる『三経義疏』を著した。 同書を太子撰述とすることに異説もあるが、太子が教の教義や精神を正しく理解していたことは「世間虚仮、唯是真」の語から証明される。
古代末期から中世にかけての末法思想の昂揚につれての危機的状況の中で聖徳太子信仰が高まり、浄土教では特に崇敬し、親鸞は「和讃」を作って鑽仰している。
日蓮聖人聖徳太子観を略述すれば、まず太子を観音の化身、南岳大師の再来とし(定二三五一頁)、物部守屋を倒して教興隆の基を作った(定三二五、一五二一頁)と、伝持者として位置づける。 また小野妹子を中に派遣して先生(せんしよう)所持の法華経を取寄せ(定一二〇七頁)、法華・維摩・勝鬘の三経を鎮護国家の法と定め(定一〇一四頁)、釈尊を本尊とした(定一六五九頁)と述べ、更に聖徳太子の記を引いて最澄の法華弘通を構成づける(定六八一頁)など、法華経弘通史上の業績を評価しつつも、なお法華の実義は弘めなかったと判じて、最澄の法華弘通とのに明確な一線を画している。 また苦行の例として、太子が手の皮をはいで法華経を書いたことを挙げている(定六〇九、一二六二頁)。 日蓮聖人が『法華義疏』を閲読したことは『注法華経』に引用していることから知られるが、その学的価値は否定している(定二三六二頁)。
《『聖徳太子集』『日本思想大系』二、『遺文辞典』歴史篇「聖徳太子」の項、『日蓮辞典』『国史大辞典』七巻「聖徳太子」の項

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