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注法華経

ちゅうほけきょう #3933

注法華経

ちゅうほけきょう

(一)七巻あるいは一〇巻。
南北朝・劉虬(りゆうきゆう)(五世紀末)著。
劉虬が諸師の説を注記したもので、永起の『東域伝燈目録』巻上にも「註法華経」と記載されているが、不現存。
ただし智顗の『法華文句』、吉蔵の『法華玄論』にも引用され、またわがでは奈良代に盛んに書写・読誦されていたことが、正倉院文書の写経所記録『優婆塞貢進解』に見える。
そのの遺物が石山寺その他に現存し、法華経の本文の中に諸師の注釈を細字にて二行に記入した形をとっている。

(二)日蓮聖人著。
〔題名〕白蓮日興真筆の『御遷化記録』に「経は、私集最要文、注法華経と名づく。同じく墓所の寺に籠め置き、六人香花当番の時、之を披見すべし。自余の聖教は沙汰の限りに非ず云云。仍て御遺言に任せ、記すところ件の如し、弘安五年十月十六日 執筆日興」(『宗全』第二巻一〇五頁)とあり、同じく日興らの『御遺物配分事』には冒頭に「注法華経一部十巻 弁阿闍梨」(同一〇七頁)、中老日位の『御葬送日記』(『宗全』第一巻五五頁)にも同文の記事があり、辨阿闍梨日昭から弟子日祐への譲状たる『遺跡之事』には「一、注法華経一部は先師聖人自筆を以て勘文を注し、奥旨を記したまふ、此宗の重宝、末代の規模也」(『宗全』第一巻一二頁)とあり、「私集最要文」は聖人の御自題であるが、命名というよりは普通名詞であるかも知れない。
また「注法華経と名づく」とは聖人の命名か、直弟達の命名か明瞭でない。
しかしその後、直弟達はこれを「注法華経」と称したことは右の文によって明らかである。
池上一二世日惺編纂本も『注法華経』、日宗社版も『日蓮聖人註法華経』と称しているが、兜木正亨は劉虬のものと混同する恐れありとして「書入れ本法華経」(岩波日本古典文学大系『親鸞集・日蓮集』解説)と称し、昭和四五年本満寺出版のコロタイプ版は『私集最要文注法華経』と称している。

真蹟〕静岡県玉沢妙法華寺所蔵、全一〇巻完。
春日版に属する無刊記の巻子本の法華経開結一〇巻のいわゆる法華三部経に、聖人みずから諸経論釈の要文を注記されたもので、その記入は経の表面の行及び余白と、裏面の全体にわたって施され、第七・第八両巻の表面に多少の余白を残す外は、悉く注記によって埋め尽されている。
そして第一・第二・第四巻にそれぞれ一章ずつの他筆(日興筆か)がある外はすべて聖人の真筆。
紙数は開経二三紙、一巻二五紙、二巻二九紙、三巻二七紙、四巻二四紙、五巻二六紙、六巻二五紙、七巻二三紙、八巻二一紙、結経二一紙。
玉沢所蔵の由は、先の『御遺物配分』等によって明らかなように、聖人滅後、本書の所有は日昭に帰したからである。
ところが慶長の前後、玉沢一四世日苞に対し、池上本門寺一二世の仏乗日惺は本書出版のために門外不出の本書の貸与を依頼し、借用の証として御真筆の『兄弟鈔』を玉沢に預けた。
しかるに書写校訂終了後も一〇巻の中の五巻は返却されないままに日惺の示寂となり、日苞の再三の請求にもかかわらず、残りの五巻は池上の所蔵となり、代りに『兄弟鈔』が玉沢の所蔵となった。
ために日苞は責任を痛感して入水して果てたといわれる(『毒鼓殉教号)。
昭和一六年(一九四一)に至って漸く両書の交換が成立し『兄弟鈔』は池上に、本書は全巻揃って玉沢に納められることになった。

〔系年〕従来の所説は概ね立教開宗前後とし、最近の説は佐渡以後、身延期とする。
本化別頭仏祖統紀』は建長四年(一二五二)下総東漸寺において大蔵経閲覧の際に撰すとし、『本化高祖年譜』は建長七年、『高祖紀年録』『高祖累歳録』は『高祖年譜』の説を踏襲し、『高祖年譜攷異』は或説として「国字伝(『日蓮聖人御伝記』のことか)は弘長元年(一二六一)に係く」という。
乗日惺は『註法華経』の奥書において文応元年(一二六〇)の松葉谷草庵夜討の時すでに本書は存在していたとし、『日蓮聖人註法華経』の編纂刊行に当った河合日辰北尾日大・加藤文雄三師は、立教開宗に備えてこの撰集ありとして、ほぼ『統紀』の説に同じている。
以上は立教開宗前後とする説であるが、稲田海素(『日蓮宗年表』)は以上と異り、文永一一年(一二七四)の項に「此頃身延山に於て諸要文に依て法華経を註す。(註経)」と述べて身延期撰述説を採る。
昭和三一年日蓮宗教学研究発表大会のときの山中喜八の発表によると、この稲田説は立正安国会創立者片岡随喜の説を採用したとのことであり、更に本書の詳細な筆蹟鑑定の結果、最も早いものでも文永一〇年以前には遡りがたく、大半は文永一一年後半から建治三年(一二七七)に亘る御筆蹟と見ると発表したが、これに対し執行海秀「日蓮聖人の註法華経について」(昭和三三年一〇月三〇日発行『日本仏教』二号)では、文永九年の『開目抄』の引用文のほとんどが注経の書入れ分と共通するところから、たとえ現存の注経が文永一〇年以後の成立であるとしても、佐渡以前から御所持の『注法華経』なるものがあり「佐前に書かれた註法華経が伊豆や佐渡の配流並に数多くの法難によって破損を被むったが為に、身延住山の初めに再び転写されたのが、今日現存の註法華経ではないか」と推測する。
この説に対して山中喜八は「注法華経私考」(『大崎学報』一〇九号)を書し、佐前の『注法華経』の存在を想定せずとも、聖人には多数の要文集がなお現存しており、殊に『台肝要文集』上は合計一二五章に及ぶ経釈を引くうち、その章句が注経の所引と全同のもの二九章、広略の差はあるが同致のもの四七章に達し、頗る関連の密なるものがあるので、それらからの転載である可能もあることを匂わせた。
とすれば注経はそれら要文集所引の文を取捨し集大成して開結一〇巻に配当したものとも推察される。
勿論、読書量が増すにつれて爾後に書入れられた分も多かろう。
かくて山中喜八は昭和四三年(一九六八)二月発行の本満寺出版本の解説においては「注法華経の御筆蹟は、最も早いものでも文永九年以前には遡りがたく、最も遅いものは弘安初年に属し、大半は文永一一年から建治三年に亘る期のものと推定せざるを得なかった」という。
現存の注経の系年等はこれをもって最終とする。
するとその以後は聖人も病状も思わしくなく、読書量も減り、従って新たな書入れも行われなかったことになる。
なお再考の要がある。

〔内容〕書入れられた章句の総数は二一〇五章、すべて経論疏からの引用文であって、聖人自身の言辞は僅かに引用経論疏に設問・標目等の辞句を加えた部分があるにすぎない。
経律部八五部四六四章、論部二六部九〇章、支那撰述部九六部一二八一章、日本撰述部五八部二六五章、未詳五部五章、合計二七〇部二一〇五章となる。
中には現存しない経論疏からの引用二四部あり、また孫引きのものもある。
これらのおびただしい書入れのうち八〇五章は三大部からの引用であり、遡源的には南岳・世親・龍樹の論が引用され、伝承的には章安・妙楽以降のものとして、支那天台では明曠・智度(東春)・智雲・道暹・従義・宗昱・遵式・有嚴らの著を引き、日本天台では伝教を初め、慈覚・智証・安然・恵心・道邃・証真・千観・蓮実房らの著が加えられて、書入れの大半は天台法華宗関係のものである。
しかし華厳・三論・法相・真言等の諸宗の経論釈の書入れも多数あり、各宗の主張やその論拠を示しているが、それに対する聖人自身の断案は明記されない。
浄土宗関係の典籍としては『大阿弥陀経』から一章、『観無量寿経』から二章、『観経義疏』から一、『観経疏正観記』から一、『浄土群疑論』から一、『往生拾因』から一の合計七章にすぎず、浄土宗成立の根本宗典たる善導法然の著述は、その書名すら発見できないということは、一見奇異の感がするが、別に要文を所持しておられたものと推察する外はない。
次に聖人自身が付された言辞を表示すると、
一に設問類=「疑って云く、別一念三千を明す乎」の類で、四ヵ所。
二に標目類=「真言の一行が台に帰するの文」の類で、二〇ヵ所。
三に副題類=弘の三に「楞伽経を釈して」云くの類で、一○ヵ所。
四に註記類=唯識論の一二に云く「此論に亦転斉・転滅の二義有り」の類で、一一ヵ所等々、合計五七ヵ所ある。
遺文には全く引用されない支那天台・日本天台の典籍ならびに章句も多く、聖人学研究の面でも如何に並々ならぬ精進努力を払っておられたかを偲ぶ上にも、最も好箇の書物である。

〔『金綱集』『御義口伝』との関連〕日蓮聖人の直弟並に法孫等の教学に与えた本書の影響は大きく、日向の『金綱集』、日像の『秘蔵集』、日全の『法華問答正義抄』等の諸宗見聞は注経書入れの要文に負うところ少なしとしない。
殊に『金綱集』所引の経釈には注経所引と合致するものが甚だ多い。
例示すれば「華厳宗見聞」所引一四〇章のうち六六章、「真言見聞・別本」所引二一〇章のうち六七章、「法相宗見聞」所引九五章のうち三六章、「法華経之」所引一八九章のうち九四章が注経所引と合致する。
しかも注経所引には原典を節略または取意引用し、あるいは他典からの孫引きもあるが、それと『金綱集』所引の文とを照合すると、節略個所が全く一致し、或は取意の綴文が全同であって、注経を参照したとしか考えられない節の所がある。
故に『金綱集』は注経に基づいて諸宗を批判された聖人説の筆録と、注経から書写抄出した経釈の要文とを根幹として、次第に集大成されたものと解することができる。
次に『御義口伝』は具さには「就注法華経御義口伝」と称し、弘安元年(一二七八)身延山で門弟の六老僧のために注経に就いて聖人自ら口伝されたものを、六老の一人である白蓮日興が筆録したと、要法寺版の奥書にある。
清水梁山はこの奥書を後人の添加と断定して、同師校訂の日宗社版および平楽寺版から削除したが、一部の門派においては現在なおこの所伝を信用し、また本書を依用すること大なるものがある。
しかし『御義口伝』所引の疏釈と注経所引の疏釈との出入異同を考えれば、旧来の所伝に疑惑を懐かねばならない。
『御義』が「注法華経」に就て説されたものならば、引用の疏釈において両書共通するところが多いはずであるのに、『御義』所引疏釈一三三章のうち、注経に共通するのは僅か二三章、うち全同のもの二章、他は注経よりも略されており、もし重出の文を除けば、共通するものは二〇章となる。
これをもってしても『御義』は注経についての説でないことは明瞭である。

〔出版刊行〕昭和五一年まで前後六回あり、四種類の刊本が現行している。
第一回は延宝九年(一六八一)七月開板、第二回はそれから七〇年後の寛延四年(一七五一)に要法寺蔵板として再び刻板したもので、一部一〇冊よりなり、「板本註法華経」または「惺師本註法華経」と称する。
この初板・再板は本文にはほとんど異同なし、奥書・又奥書の二文が再板にあって初板になし。
この奥書によると、池上本門寺一二世乗院日惺が文禄五年(一五九六)夏、弟子の恕潤目税に筆写させたとある。
本経を省略して、聖人書入れの経論釈だけを抜出してこれを各品ごとに類纂したため、正本に較べて所引の文言の意が一層取り難い。
また正本に存して板本に欠落した経釈が五四章、正本に存しないのを私に加えた経釈が二八章ある。
第三回は昭和七年日宗社から刊行された『日蓮聖人註法華経』三冊。
本書は河合日辰が板本註法華経所載の経釈と本経とを照合し、これに基づいて北尾日大が編纂に当ったもので、真蹟との対照によって板本の脱漏を補ったところが八章、板本私加の分について真蹟になき旨を指摘したところが四章あるが、おおむねは板本の踏襲である。
全文和訳、出典の明示、『御義口伝』『日向記』との会合等に特色があり、第三巻の別巻には本経の科文・解説・出典解題・出典索引等を添附している。
第四回は立正安国会刊行『日蓮大聖人御真蹟』の一部として刷された一〇巻。
正本の表裏両面を原寸大に写真撮影し、コロタイプ刷に付したもの。
第五回は京都本満寺より昭和四五年二月発行された『私集最要文注法華経』二冊。
本書は立正安国会の許可を得て、さきの真蹟複製を上段に、その読み本たる山中喜八浄写の『清書本注法華経』を下段に置いて撮影・縮尺し、コロタイプに付したもので、安会版の普及版である。
第六回は昭和五一年の「日蓮聖人真蹟集成」全十巻(法蔵館編集)である。
山中喜八『定本注法華経』上・下(法蔵館)執行海秀「日蓮聖人の註法華経について」『日本仏教』二号、山中喜八「注法華経私考」『大崎学報』一〇九号、兜木正亨「書入れ本法華経」『親鸞集・日蓮集(岩波古典文学大系)』解説、山中喜八「注法華経解説」、本満寺刊『私集最要文注法華経』下巻、『図説日蓮聖人と法華の至宝』二巻「真蹟遺文」、関戸堯海『日蓮聖人注法華経の研究』、『遺文辞典』歴史篇「注法華経」の項、『日蓮辞典』「注法華経」の項
(浅井円道)

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